今日も物質

必死で存在しています。

気の利いた題が思いつかないけど近況報告

こんにちは。ケチャップです。

 

二週間ほど前にマジの生命の危機がありましたが、生き汚く生きております。

次の生命の危機はまた二週間後あたりです。お楽しみに。

 

 

 

今日のブログでは、私の今の状況を簡単に示しておくのが目的になります。

「職業は? 年収は? 結婚はしている? 調べてみました!」みたいな感じですね。

こういった記事をたくさん書いていくのが定石となっている界隈もあるそうですが、私はそういったことができるほど頑張り屋ではないので、自分のことについてだらだらと書いていこうと思います。

 

 

さて、まず職業ですね。無職です。

とは言ってもずっと無職をやっているわけではありません。

素晴らしいことに、ここ二年で四回無職から脱するのに成功しています。

そして残念なことに四回勤続に失敗し、いよいよ本物の諦めを感じつつ画面に向かっています。

 

一回めと二回めはそれぞれ半年と一か月で仕事を辞め、三回めでは一週間、四回めは二日で辞めました。

元々忍耐力というものが自分に欠けているのは承知していましたが、ここ数年で「やめ癖」のようなものが確実に着いてきているのを感じますね。

 

この私の「やめ癖」ですごいのは(すごくはない)、生命の危機とかお構いなしにやめてしまえるところです。

物事を放り出してしまいたくなるとは言っても、「それをしないと生きていけない」ものに関しては渋々我慢するのが、生きている人間としては普通ですよね。

 

しかし私のように我慢というものがほとんど全くできない人間も確かに存在する、存在していたのです。

なぜ過去形になるのかというと、それをしないと生きていけないものに従事できないと、生きていけないからです。

生きていけないというのは死ぬということであり、死に瀕するということです。

全く当然の理として、私は死に瀕していました。

 

 

さて、次は年収の話ですね。

働いていないため、当然限りなくゼロに近いです。

ゼロです、と言えないのは、私が年収という概念に詳しくないからです。

年で区切るのか年度で区切るのか、今年の見込みを言うものなのか去年のものを言うのかそれとも平均したものを言うのか、その通例と呼ぶべきものを全く知りません。働いていないので。

 

このブログがごく稀に齎す広告収入もどのように計上すべきなのか分かりません。

まぁそもそも私が使っている代理サイト(どう呼ぶべきかもいまいち判然としません)はでは、月の収入が1000円を超えたときに、1000円に満たない収入分がまとめて出金されるという仕組みを取っているため、「ブログで稼いだ金で飯を食う」みたいなことは未だやったことがないのです。

 

収入がないんじゃあどうやって生きているんだって話ですが、これは貯金と借金と金の無心にすべてを依存しています。

貯金というのは最長の半年間の労働の成果で、これはとうの昔に使い果たしてしまっているので、今は借金と金の無心で過ごしています。

 

借金というのは消費者金融で、金の無心というのは家族だったり昔の知人だったり、まぁ色々です。

「返すあてがない」とか「貰うだけ貰って申し訳ない」だとかよりも、「もう借りられない」「次は貰えないかもしれない」みたいな感想が真っ先に来るのが私の嫌らしいところです。自分本位のまま生存の糧を他人に丸投げしています。

このままであれば、長くはもたないでしょう。

 

 

さて、今書けることについてはあらかた書いてしまいました。

私、これからどうしたらいいんでしょうね。

働く、というのが至極真っ当な解ではあるんですが、私は働きたくないのです。

マジで働きたくないのです。

普通の人は働きたくなくても働いて生きていくものですが、働くことができないゆえに生きることができず、結果として「普通の人」からあぶれて「死人」になっていくわけです。

 

まぁ私もまだ生きていますから、死者を代弁することなんてできないんですけどね。

しかし「死人に口なし」とも言いますし、口があるうちに「働きたくない」と叫んでおかなければ、生ける屍になったような心地がするのです。

 

文章を書きたくとも書けない、ないし書きたくない、自分の中に表現すべき内容を発見できない、もう終わりにしてしまいたい。

そんな気分を喉に留めたまま暗い部屋でうずくまって日々を過ごすのは、本当に気分が悪いのです。健康にもきっと悪い。

だから、自分にとっては無意味で、他人にとっては迷惑でしかないような戯言も、半年に一回くらいはこうして形にしてやる必要があるのです。

 

これが半年に一回じゃなくもっと頻繁で、月に1000円未満じゃなくもっとたくさんなら、私という生命にとって幾らかやさしいんですけどね。

もっと易しい生き方をしたいものです。

 

 

 

あ、結婚はしてません。

 

男のスキンケア【輪廻編】

まだくたばっていません。ケチャップです。

朝風呂から上がりたてで気持ちよくなっています。

 

 

正直な話、ニートやってると何日も風呂入らないとかザラにあって入る日のほうが珍しいくらいなんですが、それでもやっぱり風呂は偉大ですね。気持ちがよくなります。

「風呂に入らずに後悔したやつはいても風呂に入って後悔した奴はいない」、蓋し名言です。今考えたけど。

 

 

さて、今日の記事の題は『男のスキンケア』と、なんとも普通で社会に適合していそうな名前になっております。

この手の美容系のハナシというのは「ブログで飯を食ってる人たち」が頻繁に話題として取り上げているイメージがあります。今日はそれにあやかっていきましょう。

現在ブログの収益は平均すれば一か月あたり50円くらいになるんですが、この記事によってそれが一気に100倍、いや1000倍には膨れ上がることでしょう。過言。

 

 

で、今回紹介するのはこちらの商品。

 

 

 「ロゼット ゴマージュ 角質ツルツルこするジェル」です。

私は自分の顔面を綺麗に見せようとかそういう類のことには微塵も興味がない人間なんですが(美容系記事として最悪の一言)、この商品には若干の因縁があるんですよね。

 

 

時を遡ること十年くらい前、私が小学生か中学生か高校生だった頃の話です。

私の実家はいわゆる三世代同居で、洗面所や風呂場は老若男女がそれぞれ使い分ける美容系、衛生系用品に溢れかえっておりました。

 

そんな中で、私のことを大事に思ってくれている祖母がしきりに「これからは男の子もお肌や髪に気をつかったほうがいい」と言って、祖父、父、私が使っている洗顔料エリアに置いていたのがこの「こするジェル」なのです。

 

祖母の言葉に「なるほど一理ある」と頷きはしたものの、当時の私もまた自分の顔面を清潔に保つことに全く興味がなかったので、この「こするジェル」を筆頭とした美容用品は順調に風呂場でカビを纏い続けることになったわけですが、まぁそれでも「使ってみるかな」という好奇心だけは少しだけあって、その好奇心を最もそそったのもこの「こするジェル」だったのです。

 

 

というのもこの商品、普通の洗顔料とはちょっと違って、使用頻度は週に2~3回を勧めており、さらに肌が濡れた状態では使えないという、なかなか変わった代物だったんですね。

 

ジェルを適量取り出して顔面に擦りつけて使用すると、ジェルが消しゴムのカスのようなものに変わり始めるのです。

商品の紹介ページには「洗顔では取りきれない古い角質をポロポロからめて落とします」とあります。

この消しカスみたいなのがその除去された角質というやつなのでしょう。

この少し変わった使用方法とその結果から、当時の私は他の美容品と比べてこの「こするジェル」を若干気にし始めました(それでもほとんど使わなかったんですが)。

 

だって面白いでしょう、自分の顔面からポロポロと「悪いものらしきもの」が形になって落ちていくのは。

その感触が面白くて、顔面からカスがでなくなるまで全裸で風呂場に棒立ちしてひたすら顔を擦り続けた日もありました。美容のためというよりは、単純に娯楽としてその商品を楽しんでいたんでしょうね。

 

 

 

さて、時が経ちまして現在。

働かずに一人暮らしをするという、この世で一番顔面を気にする必要がない生活を送りながらも、この「こするジェル」は我が家の洗面台に鎮座しています。

 

祖母の「これからは男の子もお肌や髪に気をつかったほうがいい」というポリシーは十年の時を経ても変わらなかったらしく、仕送りめいて食品や衣類が詰められた段ボールの中ににちょこんと入っていたことがあったのです。

 

案の定、私はそれをほとんど使っていません。

使っていないのですが、先ほど朝風呂を浴びている間、なんとなく目に入ったこの「こするジェル」のことを考えていて、今日のブログを書くに至ったわけです。

 

 

「この「こするジェル」というのはなかなか売り方作り方が上手い商品だな」、ということを考えていました。

 

先ほど書いたように、実家暮らしの頃の私はほとんど「カスが出てくるのが愉快だ」というだけでこの商品を使っていました。

しかし、これを美容を気にする人々のように言い換えると、「自分の悪いところが形になって出てくると安心する」、となるわけです。効果が視覚化されています。

 

 

化粧水などの美容品、あるいはダイエット用品などに顕著ですが、商品を売る際に必ずと言ってもいいほど「ビフォーアフター」を宣伝として掲げるでしょう。

 

この商品はその「ビフォーアフター」の即効性に優れているのです。

「効果の実感」に秀でた商品である、とも言えるでしょう。

 

「効果があってほしい」というのと「効果を実感したい」というのは、近接した感情ではありますが必ずしも完全に一致しているわけではありません。

「効いている」と「効いている気がする」の二つでは後者のほうが圧倒的に早く訪れます。

そして、「効いている気がする」という感覚は継続を促し、結果としては大きく遅れて「効いている」がやってくるわけです。

 

「こするジェル」の使用の結果現れる消しカスみたいな物体が、美容という目的の単なる副産物なのか、あるいは「効果の実感」を促進するためにある程度意図して発生させられているものなのかは分かりませんが、商品を売るという点においては間違いなく成功していると言えるでしょう。

 

 

自分がもし起業なり商品開発なりをする立場になったら、「効果が早く実感できる」というのは意識したいポイントだなぁ、と、この「ロゼット ゴマージュ 角質ツルツルこするジェル」を眺めながら考えました。

美容だけでない、色々な分野に応用可能なノウハウでしょうからね。

 

 

今の私は無職で、自分の外見なんかには全く気を使っていませんが、もしそういうちゃんとした立場の人間になる日が来たら、やっと私は祖母のポリシーに従って外見に気を使い始めるのかもしれません。

 

「外見なんてどうでもいい」という長年の確執を捨て去る、そんな日がくるといいですね。

 

 

 

角質だけに。

 

 

 

どうして人は辛いカップラーメンを買ってしまうのか

全財産が財布の中の一万五千円のみとなり、本格的に生存が難しくなってまいりました。

ケチャップです。これからどうしよう。

 

 

「職なし学なしやる気なし」な期間を過ごしたことのある人々には分かっていただけると思うんですが、こういう状況になって一番困るのって正直「食費」じゃありませんか。

 

最悪な話をすると、家賃や光熱水費や保険料ってある程度滞納しても「明日」とか「来週」は生きていけるんですよね。

もちろん滞納しすぎたり支払いを放棄したりすると家や生活インフラを失ってグンと死が近づいてくるのは間違いないんですが、それは明日とか来週ではないのです。恐らくは。

 

問題なのは食費なんですよ。生物である以上、食わねば飢えます。飢えれば死にます。

生理的な問題ですから億ション住みの大富豪であろうが路上生活者だろうが関係なく食というのは必要不可欠なのです。

そして当然ながら前者は食に困ることはなく、後者は糊口をしのいで生きていくしかない。まったく、平等でかつ不公平な話です。

 

 

幸いなことに未だ私は路上生活者ではないのでこうしてブログを書いたりドラッグストアで安い食料品を買い漁ったりすることができているわけですが、いよいよ「明日は我が身」という言葉が現実味を帯びてきています。

それに対して全く策を講じたり体を張ったりする気力がないのが私の致命的にダメな部分なんですが、まぁ本題ではないので割愛。

 

 

本題というのは、「どうして人は辛いカップラーメンを買ってしまうのか」という話です。

皆さん、辛いカップラーメンはお好きでしょうか。

 

私はあまり得意ではありません。でもたまに買っちゃうんですよ。

日々もさもさとした味気のないものばかりを食べているので、「タンパク質と脂肪でできた辛くて旨いものが食いたい」という衝動に駆られることがしばしばあるのです。

 

 

先日、近くのドラッグストアで食料品の買い込みを敢行しました。

100円弱で売られている200グラム用のパスタ用ミートソースを始めとした安価な食料品を大量に揃えている店で、大学時代から世話になっています。

 

 

で、そこでの買い込みの際にふと「辛くて旨いものが食いたい」という例の衝動が湧いてきて、カップ麺コーナーの前をふらふらとしながら長考状態に入りました。

辛いカップ麺って結構種類があるじゃないですか。

もうめちゃくちゃ辛さ全振りのものに、「辛くて旨い」を謡うもの、あと台湾ラーメンに焼きそばや油そば風のものなどなど、びっくりするほどバリエーション豊かです。

そして安い。辛いカップラーメンというのはなぜか安価なものが多い気がします。なんでなんでしょうね。

 

先述したように、私はあまり辛いカップラーメンがあまり得意ではありません。

ですので、できるだけ辛さと旨さが共存していそうな、少なくともそれを売り文句にしているものを買い、他の食料と一緒に愛用のママチャリに載せて帰りました。

 

他の食料をそこそこ大量に買ったのに対して、このラーメンは一品だけ、故に他のものに飽きたタイミングで食べようと放置していて、それが今日だったわけです。

 

 

で、まぁ、失敗しました。

いまいちでしたね。はい。やはり得意じゃないものは得意じゃないです。

辛さも旨さも半端というか、味にパンチがないというか、値段相応というか、まぁそんな感じでした。

旨さを求めて激辛を掴んで失敗することが多かった身としては珍しい体験ではありましたが、珍しいだけで特に嬉しかったりはしません。

 

「私には辛いカップラーメンは向いていないんだ、これからは買うのは控えよう」というのが食後の感想ですが、前の失敗でも前の前の失敗でも同じことを考えていたに違いなくて、きっといずれまたこの失敗を繰り返してしまうのでしょう。

 

 

もしかしたら、私もいずれ運命の「辛いカップラーメン」に出遭い、食生活に刺激を取り戻すことができるのでしょうか。今はまだ道の途中、そういうことなのでしょうか。

 

行き倒れる前にこの道の果てを見てみたいものです。

 

 

あ、広告は蒙古タンメン中本さんですが、記事中で触れているのは中本さんではないです。悪しからず。

ニート流、段ボールDIY

こんにちは。ケチャップです。

 

 

私の引きこもり生活も長くなったもので、途中で就職したりアルバイトをしたりしていた時間を除いて計算したとしても、かれこれ3年間くらいはこの生活を続けています。

 

いわゆるニートですね。

Not in Education, Emproyment or Training、略してNEET

勉強も就職も、それらへ向けての訓練もしていない人々。私もその一人です。

 

困ったことに(困っているのは私ではないんですが)、私はこのニートであることへの罪悪感とか危機感とかいうものがほとんどなく、日々着々とニートパワーを高めているのです。

 

ニートパワーというのは、例えばソシャゲネトゲのプレイ時間や実績、無為に消費したカロリーや睡眠時間、そして滞納が続く生活費などを指しています。最悪ですね。

 

そしてなお悪いことに、無形のニートパワーがもりもりとその数値を増やしていくのと同時に、体積と質量をもつ副産物というのも日々生産されていきます。

 

 

ありていに言えばゴミです。

ニートは外に出るのを嫌うので、通販で届く段ボールなどの、割とかさばるタイプのゴミが部屋を埋め尽くしていくんですね。

 

マメに捨てるなりすれば部屋の空間を圧迫することもないのでしょうが、それができたらニートやってません。これはニートにとってはどうしようもない問題なのです。

 

捨てるのは面倒くさい、かといって増えないということはあり得ない。

じゃあどうすればいいのか。

 

 

リサイクルです。DIYしましょう。今流行りでしょうDIY。乗っかっていこうじゃありませんか。

 

 

私が実践している段ボールのDIYを二つほどご紹介しましょう。

 

 

まず一つ。サイドテーブルです。

私は座椅子とローテーブルで日々のニート作業に従事しています。

この座椅子というのが少々底が高くなっているタイプで、マウスを地面に置いて使うと腕が伸びっぱなしになって辛くなってきちゃうんですよね。

 

そこで段ボールの出番です。こちら。

 カロリーメイト、30個入りです。コイツの空き箱がまた手ごろなサイズでして、大きすぎず小さすぎず、こうした工作に最適なのです。

 

まぁ工作というか、二つ積むだけなんですが。

二つ積んで、マウスパッドとマウスを乗せて、おしまいです。これでDIYと言い張っていく勇気が必要です。

ガムテープでもあれば使っているうちにガタガタ揺れなくていいかもしれませんね。

私はガムテープを他の段ボールの山に行方不明のまま放置しているのでその工程はやってませんが。

 

 

そして二つめ。箱です。段ボールを箱として活用します。

DIYです。Do It Yourselfです。勇気です。

 

先ほどサイドテーブルに使ったものと同じ、カロリーメイトの箱に、えいやっとDIYパワーを込めると、小物入れに大変身します。

私はもっぱら「今は使わないけどたぶん将来使うもの入れ」にしていますね。

 

今確認したところ、朱肉、昔バイトで使っていた軍手、爪切り(二つめ)、乾電池、もう使ってない銀行の通帳などが入っていました。

ほぼゴミ箱ですね。ゴミを使ってゴミ箱を作っています。

 

 

まぁ、いくら無駄に近い道具であろうと、価値がマイナスのゴミのままにしておくよりは良いというものです。そう考えることで「捨てる」という根本的解決法をどんどん先送りにしていきましょう。

 

 

余談ですが、「今は使わないけどたぶん将来使うもの入れ」は我が家に3つあります。

今日紹介したカロリーメイトのものが一つ、引っ越しの際に荷解きせずに放置しているものが一つ、そして百均で買ってきたものが一つです。

ここまで来たらもう全部ゴミみたいなもんですね。捨てればいいのに。

最後に至ってはDIYですらないし。

 

 

 

 

 

さらに余談なんですが、今回紹介した30個入りのカロリーメイト、おススメです。

 これね、開けたときにめちゃくちゃテンション上がるんですよ。

アタッシュケースみたいに上蓋が持ち上がるようになっていて、開けるとカロリーメイトがぎっちぎちに詰まっているのです。

 

アタッシュケースに例えましたが、まさしくケースいっぱいに詰まった札束を目の前にしたかのような気分になることができます。

是非一度お試しを。

『チェンソーマン』7巻から読み解くポチタの正体【ネタバレ・考察】

 

さて、本日2020年6月4日、待望の『チェンソーマン』第7巻が発売されました。

 

7巻に収録されている回では物語の核心に迫るような秘密がどんどん明かされてきていて、私のような考察好きにとっては堪らない一冊になっていました。

 

そこで、1巻から7巻まで通しで読み直し、疑問点や推察可能な点を洗い出し、この記事にまとめてみることにします。

 

細かな疑問はいくつもあって、下書きとなるメモ帳はそういった雑多な走り書きで埋まってしまったので、今日は特に私が語っておきたいいくつかの点に絞って話をしていこうと思います。

 

 

そういうわけで、本題です。

「ポチタの正体」「心臓が狙われる理由」、この二つについて、ネタバレもりもりで書いていきます。

妄想、憶測を多分に含みますが、それでもよろしければ、どうぞ最後までお付き合いください。

 

 

 

 

ポチタは何者なのか

チェンソーマン』という物語は、現在「チェンソーの悪魔の心臓を巡る攻防」を主軸に展開しています。

私は、「そもそもなんでチェンソーの悪魔の心臓がそんなに重要視されてるんだろう」という疑問を抱き、それを解消するために「チェンソーの悪魔」であるポチタに注目することにしました。

 

一巻の時点でも、考察の材料となる描写は複数見つかります。

 

例えば、デンジとポチタが出会う回想シーンです。

この時、ポチタは瀕死の傷を負っているのですが、その傷というのが弾痕に見えるんですよね。

「そう見える」というだけですが、「チェンソーの悪魔はもともと銃の悪魔と敵対関係にあった」という可能性が微かに浮上します。

 

 

これは7巻で明らかになることですが、チェンソーの悪魔というのは、悪魔にとっての「子宮」と形容される「地獄」において、他の悪魔の死と転生に立ち会う存在だったようなのです。

また、永遠の悪魔の「昔よりずっと弱くなってる」、サメの魔人ビームの「チェーンを使って移動していた」などの発言から、デンジに心臓を託す以前のチェンソーの悪魔を知っている人物もいくらか登場しています。

 

果たして、その「チェンソーの悪魔」というのは「ポチタ」と完全にイコールなのでしょうか。

ポチタは永遠の悪魔と対峙した時のデンジより強かったのでしょうか?

チェーンを使って高速移動したりしていたのでしょうか?

そもそも、使われる状況が限定的であるとはいえ、厳つい外見や残忍な凶器の一面が強調されるフィクションなどのイメージから生まれるであろう「チェンソーの悪魔」が、あんな可愛らしい子犬のような姿をとるでしょうか?

ナマコの悪魔ですら「怪物」と形容するのに相応しいおぞましい姿をしていたのに?

 

 

と、ここまで考えて私が至った結論は、「ポチタはチェンソーの悪魔が力を失った姿である」というものです。

強大で他の悪魔への影響力もあったチェンソーの悪魔が、なんらかの理由で地獄を追われ(地獄の悪魔の死の傍にいるのですから、元は地獄に居たはずです)、力を消耗しきってしまった成れの果てがポチタである。私はそう考えます。

 

 

作中ではその「チェンソーの悪魔」の心臓を巡って殺したり殺されたりの戦いが繰り広げられているわけです。

ここからもう少し整理して、「チェンソーの悪魔の心臓が狙われる理由」について考えていきましょう。

 

 

 

チェンソーの悪魔は殺されるのか

作中でも何度もそう描写され、このブログでもしつこいくらいに書いていますが、多くの勢力に狙われ、利用されようとしているのは「チェンソーの悪魔の心臓」です。

チェンソーの悪魔」や、「デンジ」、「悪魔でも人間でもないモノ」のどれでもありません。

 

ここからは消去法で考えていきましょう。

 

まず、作中で「チェンソーの悪魔を確保しろ」みたいなことが宣言されたことは多分一度もありません。チェンソーの悪魔そのものを、ある勢力に引き入れたり、あるいは亡き者にしようとしているわけではないことが分かります。

というか、デンジを攻撃する勢力が口を揃えて「心臓をよこせ」と言っているあたり、もう「チェンソーの悪魔」が純粋なあり方で存在していないことが既に知れ渡っていますよね。

 

 

次、「デンジを捕まえろ」とも言われてません。

むしろほとんどの勢力にとって彼は殺害対象です。

ただ、蛇の悪魔と契約していた沢渡が「心臓は傷つけないで」と明言しています(その直後にサムライソードが「腕と心臓を狙え」とか言っちゃったりしてるんですが)。

そういうわけで、重要なのはやはりデンジという個人ではなく心臓だということになります。

 

 

「悪魔でも人間でもないモノ」についてですが、私は当初これが重要な要素なのだと考察していました。

作中で「名前がついていないくらい珍しい現象」という風に説明されているし、デンジのもつこの属性が、人間と悪魔の関係について特異点的な役割を果たすのだろうかと考えていたんですね。

しかし、デンジ以外にも「悪魔でも人間でもないモノ」は作中に数人登場します。

前述のサムライソードことヤクザの若頭、あとボムガールことレゼがこれに該当します。そして、彼らと彼らの心臓は別に特別視されてもいなければ狙われてもいません。

よって、この「特異点説」も消えます。

 

さらに言うと、アクション漫画でよくある、「敵の能力を吸収してパワーアップ!」的な代物でもないはずです。

一巻でコウモリの悪魔がデンジの血を絞って飲み下したとき、「まずい!」と言っただけで、別にパワーアップも体に異常を起こしたりもしていないからです。

まぁこれは厳密には心臓ではなく血液の話なので関係ないかもしれませんが、「チェンソーの悪魔の肉体は他の悪魔に何かしらの影響を与えるような特別なものではない」ということは言えるかもしれません。

 

 

さて、まだまだ潰し切れていない可能性も多々あるでしょうが、主だったものは排除できたかと思います。

では、それでもなお「チェンソーの悪魔の心臓」が狙われているのは一体なぜでしょうか。

 

これはもはや考察というより私の予想に過ぎないですが、私はチェンソーの悪魔が輪廻するのを防ぐため」なのではないかと考えています。

 

7巻で、悪魔は個体が死んでもその概念への恐怖がある限り輪廻し生まれ変わるという設定が明らかになりました。

そして、その輪廻にチェンソーの悪魔が深く関わっているということも。

 

仮にチェンソーの悪魔(ポチタ)が死んだとしても、別のチェンソーの悪魔が生まれ、以前の役割(役割と呼ぶべきものなのかは不明ですが)を果たし続けるでしょう。

心臓を狙う銃の悪魔らの目的は、チェンソーの悪魔を殺すこと、ではなく、チェンソーの悪魔を生かし続けておくことではないでしょうか。

 

心臓を奪い生かし続け、チェンソーの悪魔を無力化したうえで転生も封じ、それによって起こる事態が彼らの真の目的だと考えられます。

 

デンジがチェンソーの悪魔の心臓を保持したままでは、「普通の人生」を送っていずれ死に、チェンソーの悪魔はその時転生するでしょう。

そうならないためには、あらかじめ心臓を奪い、心臓だけの状態で生かし続けることが必要になるというわけです(そんなことが可能であるという描写は当然されていませんが)。

 

で、デンジを「普通の人生」から遠ざけ、デビルハンターへの道へ誘った第一発見者はというと……という話になるわけですね。

 

 

 

さて、今回の考察は以上になります。

書いているうちにどんどん粗が見つかるので書きあがるか不安でしたが、まぁ文章にはなっていますね。

この記事を読んだ人が私の考察を叩き台にして、より面白い考察をしてくれるとありがたいです。その時は是非Twitterかコメントで教えてください。

 

それでは、次の記事でお会いしましょう。

この記事を書くにあたって『チェンソーマン』の疑問点をかなり文字化したので、それをコピペして一記事分お茶を濁すかもしれません。

 

 

八方美人、どん兵衛焼うどん

 

どん兵衛きつね焼うどんを食べました。

 

焼うどんという食べ物は、実家で祖母に作ってもらって以来全く食べていませんでした。

一人じゃまず作らない料理ですよね。大皿で供されている家庭料理って感じのイメージが強いです。

 

 

味ですが、びっくりするくらい普通です。可。

普通のどん兵衛と同じくらいの強さの出汁に、七味仕立てマヨネーズをかけていただきます。

このマヨネーズが入っているために、焼うどんというよりは油そばに近い料理に仕上がっているのではないかと感じました。

まぁ私は油そばという食べ物が苦手なので、正しい例えなのかは分かりませんが。

 

 

たぶん、普段焼うどんばかり食べている人(そんな人いるか?)が「焼うどん」という字面に釣られて食べたら、「なんか違うな」と感じると思います。

あと、上に私が書いた「油そばに近い」というのを真に受けて、油そばばかり食べている人(こっちはいそう)がこれを食べても、やっぱり「なんか違うな」と感じるでしょう。

 

焼うどんとも油そばとも違う料理だな、というのが私の感想です。

ただ、美味しいのは間違いないです。

きっと上記の偏食家2人も、食べ進めているうちに「これはこれでアリ」という結論に落ち着くはずです。普通な、無難な味なので。

たぶん「アタシどん兵衛焼うどんだけはダメなの!」ってなる人はそうそういないと思います。苦手な人がいなさそうというのは、それはそれですごい話です。

 

あえて文句をつけるとすれば、油揚げについてですかね。

小さく刻んだ油揚げが入っていて、それ自体は大変結構なんですが、麺に全然絡まないんですねこれが。

麺をあらかた食べ終わってからようやくカップの隅にへばりついているその姿が見えるようになるという、インスタント麺にはありがちな状態に陥ってしまいます。

「ありがち」と感じるということは、これを解消するのは難しいんでしょうね、きっと。

しかし、もちもちとした触感にアクセントを加える意味でも、なんとか麺に絡む加薬を発明してほしいものです。

 

 

チラシの裏の恨み言

ここ最近、ものを考えるということがどんどん嫌になってきている。

 

内在化した他者がありとあらゆる思考に割り込んで、それを片端から台無しにしていく。
例えば動画を観たりゲームをしたりしている最中も、「こんなことに夢中になるなんてどうかしてる」だとか、「全然面白くないじゃん」みたいに、自動で粗を探して楽しんでいるのを邪魔してくるのである。
こういった「文章」にする際にもそれは顕著で、キーボードを叩いているとたちまち文章や文章以前の思考が無意味か蛇足かその両方であるという発想が強度を高めていく。


Twitterのトレンドが目に入っては色々な他者を見つけ、彼らを心底毛嫌いしつつも、着実に自分の内側に彼らの視点を増やしている。私を守ってしかるべき私の無意識にずっと苦しめられている。もちろん守ってくれてもいるんだろうけど、それならもっと徹底して守ってほしい。この無意識の在り方は私にとって本意ではなく、「生命のバグ」だとか「無意識の暴走」と形容して片付けてしまいたくなる。「片付けてしまいたくなる」というあやふやで思い切りに欠ける言い方がまさしく自己否定の結果であり、自分を傷つける武器の鋭さの代わりに「うまい表現」をするための武器はどんどん鈍くなってきている。

「~している」「~だ」という形で文章を終わらせるのに必要なエネルギーがどんどん増えている。
捕捉に次ぐ捕捉、言い訳の言い訳、誰に聞かれているわけでもないのに勝手に言葉を先回りして自分の道を塞いでいる。

孤独な時間が長引くにつれて、他人からの視線にはどんどん敏感になっている。根本的には孤独なので、「他人からの視線」とはいっても、得意の内在化した他者の視線にすぎず、内在化した他者というのは常に自我と相互に参照し続ける以上互いに歪めあっている。
「他人の視線に敏感なのに、肝心の真の意味での「他人」の視線の内容については歪んだ理解しかできておらず、彼らとのコミュニケーションが円滑に進むわけではない」のである。
内在化した他者が自分を歪め、歪んだ自分が現在の他者との関係の解釈を歪める。時が進むごとに自分が拗れていく悪循環が発生している。


当初は飯の種にするつもりで始めたブログだったが、自分の文章及びキャラクターを金にしてやろうという気概や自身はもうなくなってしまっている。
今日のような愚痴や「金がないから助けて」というような、コンテンツとしては下の下になるようなものしかもはや発信できず、完全に行方を見失ってしまっている。
辺りを見回すと働いていなくても自分をコンテンツとして切り売りすることで生き長らえている人々がそこそこ見つかって(「辺り」が途方もなく広くなってしまっている)そういった人々が羨ましく、妬ましい。どうして自分はこうなっていないのだろうということばかり考える。もちろん年季の違いに蓄積の違いがあるからそうなっていないのは理解できるし妥当だとも思うけれども、それでも羨ましいものは羨ましい。
当然働いていなくても食っていけている人より働いていなくて食うに困っている人のほうが絶対数は多いだろうけど、前者のほうが確実に目立つ。そして何より死体は喋らない。