眠ってばかりじゃいられない
そろそろフルグラ生活にも飽きてきた。
ケチャップです。
12月の不眠、1月の眠りすぎを経て、今私の睡眠は端的に言って「ぐちゃぐちゃ」になっています。
今飲んでる薬はですね、飲み始めの睡眠導入作用が強烈なんですよ。
確かブログにも書きましたが、12時間以上ぶっ続けで寝て、さらにそこから全然寝れてしまうのです。
当時の私は「眠りすぎて怖いけどお医者さんも大丈夫って言ってたから眠っちゃお~」くらいの気分でいたし、ずっとその調子で眠り続けられるんなら私としては万々歳だったんですよ。
しかし、薬というのは慣れるもの。
常軌を逸した睡眠時間をとれる日々はもう終わっていたようで、最近は昼夜逆転に苦しんでいます。
昼も夜も眠るのが当然の生活サイクルを送っていたはずが、そのどちらかしか眠れなくなってしまいました。
しかも「眠りたさ」自体はそのままです。「寝やすさ」は全然変わってしまったのに。
ですので、最近は日中寝て、夕方起きてちょこちょこ活動して、夜に布団の中で震えながら夜明けを待って、また眠る、という、非常に不健康な生活になってしまっているのです。
眠りたいんですよ私は。昼も夜も眠りたいし、眠りに入るたびに「このまま覚めなければいいのに」と考えています。ずっと眠っていたい。
しかし体はそれを許してくれないのです。
「眠るな」と瞼を持ち上げてくるのです。起きてても何もできやしないのに。
そう、何もできやしませんでした。結局ニートのまま一月が終わろうとしています。
バイトだか派遣だかの面接はいくつかキャンセルしました。しんどかったので。
「古本処分すればいくらかお金できるやろ~」とか思ってましたが、本の整理とかも全然やっていません。しんどかったので。
このままでは生命を維持できないことは分かり切っているのに全然体が動かないんですよね、しんどいので。
なんでこんなことになってるんだろう。バグですよバグ。命のバグです。
一生無償でいてくれや。頼むから。眠らせてくれ。
自動プロット出力装置
Wi-Fiがなくなるとなんもできない。
ケチャップです。
先日の記事ではネタ切れが云々とかいう内容を書いたので、ここでネタ切れに関する話題をもう一つ。
「自動プロット出力装置」についてです。
自動プロット出力装置とは、自動でプロットを出力してくれる装置のことです。
何も説明してないですね。
簡単に言えば、「使用者の脳内にある「文章化したいけど色々な事情があってそれができない文章」を、脳のスキャンなりAIなりの任意の技術を用いて文章(の雛形)にしてくれる装置」です。
「文章化」のところは、「映像化」でも「音声化」でも構わないでしょう。
「書きたいけど書けない」という状況を抜本的に解決する、SF的な装置、そう想定してください。
私もブログを書いていて、この手の装置があればどれだけいいだろう、と考えたことが何度もあります。
「書きたいけど、内容が膨大すぎてまとめきれない、書ききれない」「自分の中でうまく言語化できていない」「そもそもその文章が面白いのかどうかを自問して世に出すのが怖い」などなど、アウトプットに関する悩みというのは無数にあるものですからね。
もちろん私に限った話ではなく、創作を生業としている人、あるいは一般的に「自分の言いたいことをなかなか言えない人」「自分が何を考えていて何をしたいのかを整理できない人」なんかにもありがたい代物になるでしょう。
今日は、その「自動プロット出力装置」が実際に存在したらどのような現象が起こるのかを考えていこうと思います。
まず第一に、そのような装置が実現し普及したのならば、「言説の氾濫」が真っ先に発生するでしょう。
ただでさえSNSの発達であらゆる人間が(環境が整っていて、そのつもりがあるならば)発信者となっている現代です。
「言葉ならざる言葉」を言葉に押し上げる自動出力装置が実現すれば、ネット上に溢れる言説は現状の比ではないほどに膨れ上がるでしょう。
ただ、SNSといった発信の場は現在でもかなり広いものであるとはいえ、「広い」どまりです。
「ありとあらゆる地域の、ありとあらゆる人が、ありとあらゆる言説を」という状況には到底達していません。
発信を行わない、行うことができない層が存在し、「発信者のためのデバイス」が急激に普及した場合、氾濫した「発信者目線の情報」ばかりが注目され、非発信者の「言葉」は蔑ろにされがちになるでしょう。これは、「自動プロット出力装置」なるものが存在していない現在でも確実に起こっていることです。
「黙殺」ですらありません。なにしろ認識されないのですから。認識されないのは存在しないのと同じです。
まぁ、これは「発信者」が大多数になった場合の話ですね。
Twitterなんかに入り浸っているとついつい忘れがちですが、この発信者というのは巨大なマジョリティではないのです。
発信を行わない層(完全に偏見ですが、ワイドショーなどを好んで観る人々など)のほうが依然多いはずです。いや、アンケートを取ったわけではないので分かりませんが。
では「自動プロット出力装置」がそういった人々を発信者側に流入させないかというと、そんなはずはないでしょう。
「自分の言いたいことを自在に出力できる」ようになることを契機に発信者になってみる、というのは十分にあり得る動機です。
情報はますます氾濫し、ますます多様化していくでしょう。
そうすると、次に「言葉の無価値化」が起こるでしょう。
何しろ無限に言葉が溢れているのですから、一個一個に注目している時間などありはしません。モノが増えれば価値は低くなる、当然の道理です。
「発信者の増加」は、逆説的に「インフルエンサー」と呼ばれる人々やニュースサイトのフォロワーの増加を促します。
もちろん、発信者が増加するのでそのインフルエンサーやニュースサイト自体の数も増えるのは間違いありませんが、「発信者が増加にともなってインターネット上の相互交流も爆発的に増加する」かどうかは怪しいところです。
結局のところは発信といっても「有名人の発信に対する賛同、否定」が激増するにとどまるのではないか、と考えられます。
また、これは個人的な危機でもあるのですが、「自動プロット出力装置」はかなり大規模な「自尊心の破壊」をもたらす可能性があります。
「俺は他のやつとは違う」「自分は類稀な人間だ」というプライドを持っている人間は、私を始めとして多くいるはずです。
「自動プロット出力装置」は、彼らの秘められた「面白さ」を世に出してくれるのと同時に、「面白くなさ」を浮き彫りにしてしまう可能性もあるのです。
「自分は思っていたよりも大したことなかった」というのが、文章化されることで明示されてしまうわけです。
大した文章が出力されなかったり、出力した文章が大した反響を得なかったり、といった事態によってそれが起こります。
そうした人々も、「無価値化」の波から逃れることはできないわけです。
さて、何やら色々と書いてみましたが、かなりぐちゃぐちゃな記事になってしまいました。
こんな時、「自動プロット出力装置」があれば、そのプロットに合わせた整った文章が書けるのになぁ、と思います。
いや、どうでしょうね。
一通り書いて気づきましたが、「自動プロット出力装置の台頭によって起こりうる事態」を書いたつもりで、「今の私が今のSNSについて思っていること」を書いているだけになっています。
私の想像力が貧困なのか、SF技術が地続きになっていることの証なのか。
後者であってほしいものです。
何の変哲もない一日
1㎏のフルグラが尽きぬ限り、私がキッチンに立つことはないでしょう。
ケチャップです。
さて、今日は何の変哲もない一日でした。
まぁここ数か月は「変哲」とやらにお目にかかったことがなく、それをわざわざブログに書いたということは、そう、ネタ切れですね。
いえね、ネタ自体はあるんですよ。
ただ、どれも結構書くのに体力を使うというか、長く温めすぎたせいで完璧主義が発動しちゃって迂闊に書けなかったりだとか、単純にダルかったりだとか、色々と事情があるのです。
こういう時は大抵何かないか何かないかと一日にやったことを振り返ろうとしたりするわけなんですが、マジでなんにも書くことがありません。
試しに今日の私のやったことを列挙してみましょうか。
午前8時、起きます。フルグラを食べてトイレに行って布団に帰還、ソシャゲをやって寝ます。
午後1時、起きます。フルグラを食べてトイレに行って布団に帰還、ソシャゲをやって寝ます。
午後4時、起きます。再び眠るには瞼が軽すぎるのでいやいや体を起こし、座椅子に座ってPCを起動、PCでやるゲームを一通り消化し、ブログを書き始めます。
そして現在時刻午後5時30分、ほら何もないでしょって感じになっています。
まぁ、これは「何もないでしょ」というアピールをするために強いて内容が薄く見えるように書いた、というのもありますけどね。
例えばソシャゲについて書いてもいいでしょうし、夢日記でお茶を濁してもいいでしょうし、Twitterのトレンドについて物申したりすれば記事は書けるのかもしれません。
しかし、どうにも筆が進みません。
それらの話題について書くのに必要な「フック」であるとか「閃き」とかが圧倒的に足りていないのです。
こればっかりは引きこもりの限界です。受ける刺激が少なすぎるのです。
いや、足りないだの限界だの少ないだのは全部言い訳ですね。
要するに「書けない」、それだけです。
「明日は何か書くことがありますように」だとか、そんなことを考えながら寝るしかありません。
本を読んだり映画を観たり新しいゲームを始めたりでいくらでも書くことは作れると分かってはいるのですが、それらを試すことはめったにありません。
自分で自分の限界を狭めています。
無為な一日です。
薬を飲んでたくさん寝て、「今は回復に向かっている途中なのだ」と自分を慰めて、かろうじて臆病な自尊心を守っています。
面倒くさがりがパスタを茹でるべきたった一つの理由
格安のミートーソースはほぼトマトソースでパッとしない味になっていることがしばしばあるけど、適宜塩コショウなどを振ってやるとトマトの旨味がグッと引き立って値段以上の美味しさになるのでオススメのメソッド。
ケチャップです。
「面倒くさい」という思考が日々の思考の大半を占拠しているような人々にとって、自分の身の回りの世話というのはかなり厄介なタスクです。
例えば掃除、洗濯、食器洗い、ゴミ出しに買い物、人によっては食事や入浴すらも。
我々の周りには実に多くの面倒ごとが溢れているのです。
そんな面倒ごととは一生オサラバしたい、多くの面倒くさがりの人がそう考えていると思いますが、なかなかそう簡単にはいきません。
なぜなら、上に挙げたようなのはまさしくその「一生」だからです。
他のものはめんどくさくなったら「やめっぴー!」の一言でやめてしまえばそれで終わりですが、人生の維持となれば話は別です。面倒なのに変わりはありませんが、やらなくては肉体的精神的社会的に死んでしまいます。
となれば、次善の策は「できるだけ面倒さを感じないようにそれらを片付ける」となるわけです。
今日は私から、とっておきの方法を一つ伝授しましょう。
パスタを茹でるのです。
「パスタ茹でるの面倒じゃん」と思ったあなた、少々お待ちください。
このパスタを茹でるという行為には、他の多くの面倒ごとをほんのり解決してしまえる不思議なパワーが秘められているのです。
「作業興奮」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。
この言葉に聞き覚えがなくとも、昨今のSNSで「作業というのは「とりあえず始めてみる」のが大事で、そうしていると案外作業というのは捗るものだ」という言説を小耳にはさんだことはあるのではないでしょうか。
作業興奮というのはそういった「まずはやってみる、そうすると脳が興奮状態になってやる気が出てくる」という状態を指す語です。
まぁ、この言説に懐疑的な人は少なくないと思います。私だって「何言ってんだ?」と思います。
だってそれって要するに「やる気を出すにはやる気を出すといいよ!」ってことでしょう。言ってることは正しいのかもしれませんが、我々筋金入りの怠け者には通用しない理屈です。
ですが、先に挙げた「人生の維持」のような「やらなきゃ死ぬ」ような作業にはこれは効果的です。やらざるを得ませんからね。
「パスタを茹でる(食事をする)」ことで、毎日少しずつ面倒ごとを片付けていこう、というのが今日の本題なわけです。
さて、その本題ですが、まずはパスタを茹でます。
茹でる、といっても、鍋に湯を沸かし、パスタを投入し、時間を計り、その間にパスタソースも用意し、ザルに上げ、盛り付ける。そんな作業は怠け者にとっては煩雑すぎます。
電子レンジを使いましょう。
この手のアイテムを使えば、時間は計らなくていいし、ザルを使う必要もないし、鍋はソースのレトルトパウチを湯煎するのに使えます(パスタを茹でている鍋にパウチをブチ込むという方法も、まぁありと言えばありです)。
鍋が噴きこぼれる心配も皆無です。まぁ、鍋で茹でるよりかは若干時間がかかるんですがね。
しかし、そう、その「時間がかかる」というのがミソなのです。
あなたは布団から立ち上がって、夕食であるパスタを作るために立ち上がります。
容器にパスタを入れて、電子レンジにイン。これだけで、作業興奮というのは発動するものなのです。
茹で上がるまでの十数分、「布団に戻るのもなんか違うし、立ち上がっちゃったし、キッチンにいるし、どうせだから溜まってた食器洗いくらいはすませちゃおっかな」となればもうこっちのものです。
もちろん食器洗いに限った話ではありませんよ。洗濯機を回してもいいし、ちょっとだけ掃除をしてもいいし、ゴミを出しに行ってもいいし、その辺に平積みしてある本を拾って読んでもいいし、スマホゲームで時間を潰したっていいのです!
いや、後半はちょっと趣旨からずれますね。そうならないように注意です。
しかし、一日に十数分とはいえ、「作業が進む可能性が発生する」というのは、面倒くさがりにとっては非常に大きな前進ではないでしょうか。
一日に何時間も集中する必要はないのですよ、ちょっとずつ切り崩していけばいいのです。
あと、パスタは安くて美味しいですしね。
麺自体はAmazonとかでまとめ買いしておいて、パスタソースはドラッグストアで激安で売ってるのがオススメです。湯煎が面倒だという筋金入りの怠け者は湯煎不要のものでもいいでしょう。ちょっと値が張りますが。
あ、「安くて美味しいから」が入ると「たった一つの理由」にはならないですね。
まぁいいでしょう、こういうのはインパクト重視ですよ。
「パスタは安くて美味しいからこの記事は釣り!」とは誰も言わないでしょう。
さて、今日の記事はこんな感じです。
もちろん個人差の出る方法ですが、私はこの方法で数多の洗い物を始末してきたので、ある程度自信をもってオススメできます。
あなたもパスタを茹でて、自堕落な生活から脱出しましょう。
さて、私はブログを書き終えたので、フルグラで晩御飯を済ませてゲームして寝ます。
洗い物は明日でいいや。
もはや雨とは唄えない
前職でビニール傘壊れまくるのが嫌すぎて高い傘買ったのに、仕事辞めてからは一度も使ってない。
ケチャップです。
私は眠る前は大抵タブレットで適当なYoutubeの動画を流しながら眠たくなるまでソシャゲを周回する、という風に過ごしています。
どちらも耳元で音を鳴らしているので、部屋の外の環境音はほとんど聞こえません。余程風が激しかったり雷雨だったりする日は別ですが。
しかし、昨日の夜、賑やかな電子音の隙間を縫うようにして、小雨が降るような音が聞こえました。
Alexaに確認してみると、案の定天気は雨。「明日もまた頭痛が続くのか」と思って憂鬱な気分になっていたのですが、ふと『雨に唄えば』という映画のことを思い出しました。
文字通り雨の中で歌い踊っているシーンがあまりにも有名な、ミュージカル映画の古典ですね。
祖母を訪ねて三千分の一里
めちゃくちゃに鬱が押し寄せてきたのでブログお休みしようかと思ったんですが、椅子に座ったらなんとかやる気出てきたので書いています。
ケチャップです。
そうなんです、昨日の夜からめちゃめちゃに鬱が押し寄せてきていたのです。
布団に入っても一向に眠れず、例によって自動メンタル自傷が発動し、朝5時ごろまでひたすら傷み続けていました。
目が覚めたのは午後1時、「こういうときは日光を浴びれば多少はマシになるのだ」と一縷の願いを込めてカーテンを開け放ちましたが、生憎の曇天です。
即座に脳裏に「低気圧のせいだ」と責任転嫁先を用意します。ぜんぶ自然が悪い。
「昨日のストレスを和らげるためにも低気圧を回避するためにも、今日はもう一日中寝込むしかなかろう」と思って布団にとんぼ返りしますが、これが全く眠れません。
フルオート自傷行為がまだ発動していたのです。こいつが収まってくれないと私は何もできないのに。
やがて「眠れないなら仕方がない、ブログは休んで、自分の好きなことをやる時間を増やしてストレスを解消しよう」という思考に至ったのですが、今度は寒すぎて布団の外に出ることができません。何重苦なのか分かったもんじゃないですね。
しかし、ここで私は天啓を受けることになります。
「寒いのなら重ね着をすればいいじゃない」と。これは画期的、すばらしい発想です。
普通の人が毎年冬に当たり前にやっているであろう寒冷対策は、私にとっては神からの啓示にも等しいくらいに貴重な発想なのです。
毎年晩冬になってから「そういえば重ね着ってあったな」となるのです。
手袋を使うとかの発想に至るのも大抵は年が明けてしばらくしてからですし、手袋のような使う季節が限られている小物を私が紛失しないはずがないので、毎年の如く買い直しては、2か月と経たずに使わなくなります。
そしてまた失くすのです。彼らもまた、片方だけの靴下たちが眠る墓場へ行くのでしょう。
流石に服は失くしませんから(気づいていないだけで着実に数を減らしているのかもしれませんが)、重ね着をすることは容易でした。そもそも寝間着を二枚使えばいいだけの話ですし。
重ね着をして暖かくなると、今度は局所的な防寒も試みたくなってきます。
手袋はできません。パソコンをいじるにもゲームをするにも邪魔ですし、第一片方だけしか見つかりませんでした。逝ったんでしょうね。
となると、次に気になるのは首です。首元の寒さというのは全身に響きますから、ここは死守したいところです。
一昨年ごろに祖母が送ってくれたマフラーがどこかに眠っているはずなので、そいつを探しました。
はい、探しました。ありませんでした。無念です。
「探した」とは言っても「使ったらここに置くだろう」と思しき場所周辺の段ボールをひっくり返したりしただけですが、鬱と低気圧に苛まれている身で部屋全域を捜索するのは不可能です。
部屋の中をうろちょろして諦めただけということです。1.3mくらい。
祖母を訪ねて三千分の一里、再会は叶わず、「動いてたら首元気にならなくなってきたからいいや」で短い旅は終わりました。
また体力のあるときにでも再捜索を試みることにしましょう。
そのときはもう冬も終わろうとしているかもしれないし、もはや春とか夏とかに発掘される可能性もあります。
それでもいいので、せめて次の冬まで紛失しないでいてほしいですね。
また旅にでなくてもいいように。
やってないことリスト
今世紀最長と呼ばれた昨日を上回る長い昼寝。
ケチャップです。
皆さん、スケジュール帳やToDoリストと呼ばれるものを活用したことはあるでしょうか。
私はロクにありません。
これまでの人生、記憶する限りで私は二回ほどスケジュール帳を買ったことがありますが、どちらも確か一週間も使っていません。すぐに書かなくなり、失くしました。
「いつ、どこで、何をする」という予定を立てることが、立てられることが非常に大きなストレスになるんですよね。
今だって、「バイトの面接いつにしますか?」という電話がかかってくるだけで非常にキツい気分になっています。
スマホのメモ帳なんかについているような簡単なToDoリストを使うことは稀にあるのですが、「これは今度でいいや」「めんどくさいからやっぱやめとこ」という具合で、運用に失敗することが多いです。
そういうわけで、今日は逆に(逆に?)、「やってないことリスト」を作ってみようと思います。
この記事を見返せば、私がどれだけ自堕落な人間なのか手に取るように分かるという優れものです。自分で見るときは絶対に薬飲んでるときの方がいいですね。
なお、「やってない」という都合上、忘れてしまっているものもあります。やったことすらいずれ忘れてしまうんだから、達成したという印象の無い「やってないこと」が忘れ去られるのはどうしようもないことです。
そういうわけなので、「やっていなくてしかも忘れていること」という超大事そうな項目は作ることができません。忘れているので。
あと、やってないこと全てを列挙していくと膨大な時数になる上に私の自尊心に危機が訪れてしまうかもしれないので、3つくらいに留めておきます。
では、「やってないことリスト」です。どうぞ。
掃除
筆頭ですよね。マジでやりません。
お陰で我が家は完全にゴミ屋敷の様相を呈しています。何度もブログに書いてますね。
やってない理由は、めんどくさいから。掃除というのは意外と重労働なのです。自宅以外の掃除の経験からそう知っているので、なかなか体が動きません。
また、これと並行して「古本を処分する」のもやっていません。めんどくさいから。
金欠に喘いでいる今、これをやれば多少なりともお金になるのかもしれませんが、やる気は全然出ていません。
免許の更新
自動車免許の更新というのは、「やむを得ない事情がある場合」、更新期限から6か月経つまでは再発行の機会があるらしいのですが、ついぞ更新にいかずに終わりました。
そういうわけで、免許は今は持ってません。親にも友人にも「それはヤバい」と言われましたが、個人的には全く危機感を持っていません。アホウドリ並みに危機感のない男ですよ私は。
実は六か月6か月以上経っていても申請できるケースがあったりするらしいのですが、やはり「やむを得ない事情がある場合」とあるので、そんな事情は全くなく「めんどくさかった」だけの私は対象外です。
そして極めつけに更新する際の手数料を払うと私の現全財産は8割ほど消し飛びます。八方塞がりですね。
それでもヘラヘラしてるところ辺りほんとに生きるの向いてないなって思います。
ネット乞食
「欲しいものリストです♡」とか「パトロンの皆さんはこちらに振り込みお願いします♡」とかいう窓口を一切作っていません。
いや、めちゃくちゃやりたいんですけどね。めんどくさいのでやってません。万事この調子です。オチにすらなりませんね。
将来的にはこういうもので食っていきたいんですが、それを実現するには圧倒的にフォロワー(Twitterのフォロワーに限らず、「同意者」くらいの意味です)が足りません。
足りません、と言っても、開設してないから分かりませんけどね。
もしかしたら「お前のためなら月に500円くらいなら投げてやってもいいよ」という人がすでに10人くらいいるかもしれません。そしたら私は月5000円の収入になります。
50円が100人でも、5000円が1人でもいいです。
そういう人を増やしていくことが私の今後の至上命題なのです。
プライド? ありません。
以上、やってないことリストでした。
前置きに「やってないこと全てを列挙していくと膨大な時数になる」とか書いといてなんですが、全然思いつきませんでしたね。思いつかないので急遽この文言を後付けしました。
やっぱ忘れるんですよね、やってないから。
そしていつか忘却の彼方から致命的な負債が私に追いついて、「ツケを払え」と脅してくるのです。
ニートという今の身分がそれを証明していますね。
そして過ちは繰り返されようとしている。どこまで落ちていくのやらって感じです。
他人事みたいに言ってますね。危機感、どうにかして身に付かねぇかなぁ。