今日も物質

必死で存在しています。

今宵の月のように

アーティストで曲を聞かない派です。

 

ケチャップです。

 

 

毎日やるとか言っておきながら一日たりとも続かなかった段ボール駆逐作業を本日消化しました。

もう結構片付いたんじゃないでしょうか。

物が入っているやつを除けばおよそ6割は駆逐完了といったところでしょうか。なかなかの速度です。私はやればできるやつだ。

 

 

んで、今日の作業中はずっとAlexaにBGMを流してもらってたんですよね。

スピーカーとして使ったのいつぶりになるんでしょう。

私はあまり「ながら作業」というのができないたちで、日々を過ごす中で強いて音楽を聴くためだけに時間を割くこともあまりないので、たまにプレイリストを再生したりすると随分懐かしい曲が流れてきて懐かしさに耽ったりするものなのです。

 

「そういえばこの曲好きだったな」「やっぱこの曲好きだな」ってなるんですよね。

 

懐かしのバラードを背中に聞きながらゴミを出すために玄関を開けると、厚着した身体を涼しい風がすり抜けていって、まるで自分自身が歌の一部になっているような感覚を受けました。

 

音楽をかけていなくても、ニートをやっていて久々に外に出たりすると、外の世界に「感覚」を呼び起こされて途方もなく感傷的な気分になったりするものですが、今日はそれが強化された形です。

 

良い体験でした。

今日はこれを書き留めておきたかっただけです。

 

一日も続かない習慣

特技はおにぎりを適切な温度にチンすること。

 

ケチャップです。

 

 

今日は一際睡眠時間が長かったですね。起きてた記憶がありません。

 

それが意味するのは、段ボールを破壊するという習慣は一日にして潰えたということ。

何をやらせてもままならない。

 

自己嫌悪のような感情は特にありません。

「ダメな人だなぁ」という、どこか他人事のような感想があるだけです。

人生万事他人事なんですよね私という人間は。だからいつもヘラヘラしているのです。

まぁ実際のところは自己嫌悪というのは自覚されずに積もり続けて今日の私を作り上げているんでしょうけども。

 

 

支離滅裂なことしか書けません。

今日はこれで終わり。

明日はそうじゃありませんように。

ダンボール・デストロイヤー

食料と薬がどんどん減るみたいに負債もどんどん減ってほしい。

 

ケチャップです。

 

 

先日からずっと古本を処分したいと思っていながら行動に移せずにいたのですが、今日とうとう動きがありました。

 

部屋に溢れまくっている段ボールの処分です。

部屋の半分以上が段ボールを始めとするゴミで埋め尽くされているので、それらを取り除いたのち、買い取り業者さんに来て査定をしてもらおうという魂胆です。

もう業者さんに詳細を聞く電話はしました。なんて準備がいいんだろう。なんでいつもこうじゃないんだろう。

 

 

とはいえ、このゴミ屋敷も一朝一夕で築き上げたものではありませんから、解体するのにも相応に時間がかかります。

そして、私はそんなに長い時間集中していることはできません。

 

と、いうことは、そう、小分けにするのです。

1日に20分だけ、私はダンボール・デストロイヤーになることにしました。

この時間だけは他のことは一切考えず、ゴミを処理することに専念します。

 

毎日です。毎日やります。この部屋がすっきりとした居住空間になるまで、ひいては不用品をお金に換えて当面の娯楽費……じゃなくて生活費……でもなくて、安定した収入を得るための軍資金を得るまでは。

 

 

まぁ確実に面倒な作業ですが、手を付けてみれば集中状態になってみればそれほど苦痛は感じません。前にもブログに書いた、作業興奮というやつですね。やり始めればなんてことないのですよ。

 

それに、思わぬ収穫もありました。

段ボールの中から続々とお宝が出てくるんですよ。びっくりです。私はこんなに物を持っていたんですね。

 

最初は素手で段ボールの接合部分を引きちぎったり伝票を剥いだりしていたのですが、早々にカッターナイフを発掘。作業が一気に捗り始めます。ガムテープとか使ってある代物は素手では面倒ですからね。

 

次の品はハサミ。今使っているハサミと全く同じ、コンビニで売っている白い奴が出てきました。

そうそう、「あれ~ハサミあったはずなんだけどな~」つって買い直したんですよね、何回か。この調子だとあと2,3本出てくるかもしれません。2本までならキッチン用と居間用とって感じで分けられますからいいですが、それ以上はゴミですね。

危ないし、これ以上買い貯めていないことを祈ります。

 

 

そして最大の発掘はですね、パスタソースです。

ゴミ山の下からレトルトパウチが出てきました。

心当たりはあります。恐らくは昨年4月からの派遣労働に向かう直前に購入したものでしょう。それが今になって出てきたというわけです。

 

気になる賞味期限は、2020年6月!食えます!ラッキーです!

3つあったので、3日分の夕食を確保したことになります。これは大きいですよ。

 

例えるならそう、海賊団が宝の島でかつての海賊王秘蔵のワインを見つけたような気分です。「どこどこの~年もの!国宝級だぜこいつぁ!」って感じですね。

 

 

思わぬ収穫があってテンションが上がっているので、明日の私もきっとこの高揚感を思い出して段ボールをデストロイしてくれることでしょう。

今度はもしかしたら金塊とか見つかるかもしれません!24金!

 

 

そうなったらいいなぁ、ほんとに。悩みが一気に解決するんですけどね。

眠ってばかりじゃいられない

そろそろフルグラ生活にも飽きてきた。

 

ケチャップです。

 

 

12月の不眠、1月の眠りすぎを経て、今私の睡眠は端的に言って「ぐちゃぐちゃ」になっています。

 

今飲んでる薬はですね、飲み始めの睡眠導入作用が強烈なんですよ。

確かブログにも書きましたが、12時間以上ぶっ続けで寝て、さらにそこから全然寝れてしまうのです。

当時の私は「眠りすぎて怖いけどお医者さんも大丈夫って言ってたから眠っちゃお~」くらいの気分でいたし、ずっとその調子で眠り続けられるんなら私としては万々歳だったんですよ。

 

しかし、薬というのは慣れるもの。

常軌を逸した睡眠時間をとれる日々はもう終わっていたようで、最近は昼夜逆転に苦しんでいます。

 

昼も夜も眠るのが当然の生活サイクルを送っていたはずが、そのどちらかしか眠れなくなってしまいました。

しかも「眠りたさ」自体はそのままです。「寝やすさ」は全然変わってしまったのに。

 

ですので、最近は日中寝て、夕方起きてちょこちょこ活動して、夜に布団の中で震えながら夜明けを待って、また眠る、という、非常に不健康な生活になってしまっているのです。

 

眠りたいんですよ私は。昼も夜も眠りたいし、眠りに入るたびに「このまま覚めなければいいのに」と考えています。ずっと眠っていたい。

しかし体はそれを許してくれないのです。

「眠るな」と瞼を持ち上げてくるのです。起きてても何もできやしないのに。

 

 

そう、何もできやしませんでした。結局ニートのまま一月が終わろうとしています。

バイトだか派遣だかの面接はいくつかキャンセルしました。しんどかったので。

「古本処分すればいくらかお金できるやろ~」とか思ってましたが、本の整理とかも全然やっていません。しんどかったので。

 

このままでは生命を維持できないことは分かり切っているのに全然体が動かないんですよね、しんどいので。

なんでこんなことになってるんだろう。バグですよバグ。命のバグです。

 

一生無償でいてくれや。頼むから。眠らせてくれ。

 

自動プロット出力装置

Wi-Fiがなくなるとなんもできない。

 

ケチャップです。

 

 

先日の記事ではネタ切れが云々とかいう内容を書いたので、ここでネタ切れに関する話題をもう一つ。

 

「自動プロット出力装置」についてです。

 

自動プロット出力装置とは、自動でプロットを出力してくれる装置のことです。

何も説明してないですね。

簡単に言えば、「使用者の脳内にある「文章化したいけど色々な事情があってそれができない文章」を、脳のスキャンなりAIなりの任意の技術を用いて文章(の雛形)にしてくれる装置」です。

「文章化」のところは、「映像化」でも「音声化」でも構わないでしょう。

「書きたいけど書けない」という状況を抜本的に解決する、SF的な装置、そう想定してください。

 

私もブログを書いていて、この手の装置があればどれだけいいだろう、と考えたことが何度もあります。

「書きたいけど、内容が膨大すぎてまとめきれない、書ききれない」「自分の中でうまく言語化できていない」「そもそもその文章が面白いのかどうかを自問して世に出すのが怖い」などなど、アウトプットに関する悩みというのは無数にあるものですからね。

もちろん私に限った話ではなく、創作を生業としている人、あるいは一般的に「自分の言いたいことをなかなか言えない人」「自分が何を考えていて何をしたいのかを整理できない人」なんかにもありがたい代物になるでしょう。

 

 

今日は、その「自動プロット出力装置」が実際に存在したらどのような現象が起こるのかを考えていこうと思います。

 

まず第一に、そのような装置が実現し普及したのならば、「言説の氾濫」が真っ先に発生するでしょう。

ただでさえSNSの発達であらゆる人間が(環境が整っていて、そのつもりがあるならば)発信者となっている現代です。

「言葉ならざる言葉」を言葉に押し上げる自動出力装置が実現すれば、ネット上に溢れる言説は現状の比ではないほどに膨れ上がるでしょう。

 

ただ、SNSといった発信の場は現在でもかなり広いものであるとはいえ、「広い」どまりです。

「ありとあらゆる地域の、ありとあらゆる人が、ありとあらゆる言説を」という状況には到底達していません。

発信を行わない、行うことができない層が存在し、「発信者のためのデバイス」が急激に普及した場合、氾濫した「発信者目線の情報」ばかりが注目され、非発信者の「言葉」は蔑ろにされがちになるでしょう。これは、「自動プロット出力装置」なるものが存在していない現在でも確実に起こっていることです。

「黙殺」ですらありません。なにしろ認識されないのですから。認識されないのは存在しないのと同じです。

 

まぁ、これは「発信者」が大多数になった場合の話ですね。

Twitterなんかに入り浸っているとついつい忘れがちですが、この発信者というのは巨大なマジョリティではないのです。

発信を行わない層(完全に偏見ですが、ワイドショーなどを好んで観る人々など)のほうが依然多いはずです。いや、アンケートを取ったわけではないので分かりませんが。

 

 

では「自動プロット出力装置」がそういった人々を発信者側に流入させないかというと、そんなはずはないでしょう。

「自分の言いたいことを自在に出力できる」ようになることを契機に発信者になってみる、というのは十分にあり得る動機です。

情報はますます氾濫し、ますます多様化していくでしょう。

 

 

そうすると、次に「言葉の無価値化」が起こるでしょう。

何しろ無限に言葉が溢れているのですから、一個一個に注目している時間などありはしません。モノが増えれば価値は低くなる、当然の道理です。

 

「発信者の増加」は、逆説的に「インフルエンサー」と呼ばれる人々やニュースサイトのフォロワーの増加を促します。

もちろん、発信者が増加するのでそのインフルエンサーやニュースサイト自体の数も増えるのは間違いありませんが、「発信者が増加にともなってインターネット上の相互交流も爆発的に増加する」かどうかは怪しいところです。

結局のところは発信といっても「有名人の発信に対する賛同、否定」が激増するにとどまるのではないか、と考えられます。

 

 

また、これは個人的な危機でもあるのですが、「自動プロット出力装置」はかなり大規模な「自尊心の破壊」をもたらす可能性があります。

 

「俺は他のやつとは違う」「自分は類稀な人間だ」というプライドを持っている人間は、私を始めとして多くいるはずです。

「自動プロット出力装置」は、彼らの秘められた「面白さ」を世に出してくれるのと同時に、「面白くなさ」を浮き彫りにしてしまう可能性もあるのです。

 

「自分は思っていたよりも大したことなかった」というのが、文章化されることで明示されてしまうわけです。

大した文章が出力されなかったり、出力した文章が大した反響を得なかったり、といった事態によってそれが起こります。

そうした人々も、「無価値化」の波から逃れることはできないわけです。

 

 

 

さて、何やら色々と書いてみましたが、かなりぐちゃぐちゃな記事になってしまいました。

こんな時、「自動プロット出力装置」があれば、そのプロットに合わせた整った文章が書けるのになぁ、と思います。

 

いや、どうでしょうね。

一通り書いて気づきましたが、「自動プロット出力装置の台頭によって起こりうる事態」を書いたつもりで、「今の私が今のSNSについて思っていること」を書いているだけになっています。

 

私の想像力が貧困なのか、SF技術が地続きになっていることの証なのか。

後者であってほしいものです。

 

何の変哲もない一日

1㎏のフルグラが尽きぬ限り、私がキッチンに立つことはないでしょう。

 

ケチャップです。

 

 

さて、今日は何の変哲もない一日でした。

まぁここ数か月は「変哲」とやらにお目にかかったことがなく、それをわざわざブログに書いたということは、そう、ネタ切れですね。

 

いえね、ネタ自体はあるんですよ。

ただ、どれも結構書くのに体力を使うというか、長く温めすぎたせいで完璧主義が発動しちゃって迂闊に書けなかったりだとか、単純にダルかったりだとか、色々と事情があるのです。

 

こういう時は大抵何かないか何かないかと一日にやったことを振り返ろうとしたりするわけなんですが、マジでなんにも書くことがありません。

試しに今日の私のやったことを列挙してみましょうか。

 

 

午前8時、起きます。フルグラを食べてトイレに行って布団に帰還、ソシャゲをやって寝ます。

午後1時、起きます。フルグラを食べてトイレに行って布団に帰還、ソシャゲをやって寝ます。

午後4時、起きます。再び眠るには瞼が軽すぎるのでいやいや体を起こし、座椅子に座ってPCを起動、PCでやるゲームを一通り消化し、ブログを書き始めます。

 

そして現在時刻午後5時30分、ほら何もないでしょって感じになっています。

 

まぁ、これは「何もないでしょ」というアピールをするために強いて内容が薄く見えるように書いた、というのもありますけどね。

例えばソシャゲについて書いてもいいでしょうし、夢日記でお茶を濁してもいいでしょうし、Twitterのトレンドについて物申したりすれば記事は書けるのかもしれません。

 

しかし、どうにも筆が進みません。

それらの話題について書くのに必要な「フック」であるとか「閃き」とかが圧倒的に足りていないのです。

こればっかりは引きこもりの限界です。受ける刺激が少なすぎるのです。

 

いや、足りないだの限界だの少ないだのは全部言い訳ですね。

要するに「書けない」、それだけです。

 

「明日は何か書くことがありますように」だとか、そんなことを考えながら寝るしかありません。

本を読んだり映画を観たり新しいゲームを始めたりでいくらでも書くことは作れると分かってはいるのですが、それらを試すことはめったにありません。

自分で自分の限界を狭めています。

 

無為な一日です。

薬を飲んでたくさん寝て、「今は回復に向かっている途中なのだ」と自分を慰めて、かろうじて臆病な自尊心を守っています。

面倒くさがりがパスタを茹でるべきたった一つの理由

格安のミートーソースはほぼトマトソースでパッとしない味になっていることがしばしばあるけど、適宜塩コショウなどを振ってやるとトマトの旨味がグッと引き立って値段以上の美味しさになるのでオススメのメソッド。

 

 

ケチャップです。

 

「面倒くさい」という思考が日々の思考の大半を占拠しているような人々にとって、自分の身の回りの世話というのはかなり厄介なタスクです。

例えば掃除、洗濯、食器洗い、ゴミ出しに買い物、人によっては食事や入浴すらも。

我々の周りには実に多くの面倒ごとが溢れているのです。

 

そんな面倒ごととは一生オサラバしたい、多くの面倒くさがりの人がそう考えていると思いますが、なかなかそう簡単にはいきません。

なぜなら、上に挙げたようなのはまさしくその「一生」だからです。

他のものはめんどくさくなったら「やめっぴー!」の一言でやめてしまえばそれで終わりですが、人生の維持となれば話は別です。面倒なのに変わりはありませんが、やらなくては肉体的精神的社会的に死んでしまいます。

 

 

となれば、次善の策は「できるだけ面倒さを感じないようにそれらを片付ける」となるわけです。

今日は私から、とっておきの方法を一つ伝授しましょう。

 

 

 

パスタを茹でるのです。

 

「パスタ茹でるの面倒じゃん」と思ったあなた、少々お待ちください。

このパスタを茹でるという行為には、他の多くの面倒ごとをほんのり解決してしまえる不思議なパワーが秘められているのです。

 

作業興奮」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。

この言葉に聞き覚えがなくとも、昨今のSNSで「作業というのは「とりあえず始めてみる」のが大事で、そうしていると案外作業というのは捗るものだ」という言説を小耳にはさんだことはあるのではないでしょうか。

作業興奮というのはそういった「まずはやってみる、そうすると脳が興奮状態になってやる気が出てくる」という状態を指す語です。

 

まぁ、この言説に懐疑的な人は少なくないと思います。私だって「何言ってんだ?」と思います。

だってそれって要するに「やる気を出すにはやる気を出すといいよ!」ってことでしょう。言ってることは正しいのかもしれませんが、我々筋金入りの怠け者には通用しない理屈です。

 

 

 

ですが、先に挙げた「人生の維持」のような「やらなきゃ死ぬ」ような作業にはこれは効果的です。やらざるを得ませんからね。

「パスタを茹でる(食事をする)」ことで、毎日少しずつ面倒ごとを片付けていこう、というのが今日の本題なわけです。

 

 

 

さて、その本題ですが、まずはパスタを茹でます。

茹でる、といっても、鍋に湯を沸かし、パスタを投入し、時間を計り、その間にパスタソースも用意し、ザルに上げ、盛り付ける。そんな作業は怠け者にとっては煩雑すぎます。

電子レンジを使いましょう。

 

 

この手のアイテムを使えば、時間は計らなくていいし、ザルを使う必要もないし、鍋はソースのレトルトパウチを湯煎するのに使えます(パスタを茹でている鍋にパウチをブチ込むという方法も、まぁありと言えばありです)。

鍋が噴きこぼれる心配も皆無です。まぁ、鍋で茹でるよりかは若干時間がかかるんですがね。

 

 

しかし、そう、その「時間がかかる」というのがミソなのです。

あなたは布団から立ち上がって、夕食であるパスタを作るために立ち上がります。

容器にパスタを入れて、電子レンジにイン。これだけで、作業興奮というのは発動するものなのです。

 

茹で上がるまでの十数分、「布団に戻るのもなんか違うし、立ち上がっちゃったし、キッチンにいるし、どうせだから溜まってた食器洗いくらいはすませちゃおっかな」となればもうこっちのものです。

もちろん食器洗いに限った話ではありませんよ。洗濯機を回してもいいし、ちょっとだけ掃除をしてもいいし、ゴミを出しに行ってもいいし、その辺に平積みしてある本を拾って読んでもいいし、スマホゲームで時間を潰したっていいのです!

 

いや、後半はちょっと趣旨からずれますね。そうならないように注意です。

しかし、一日に十数分とはいえ、「作業が進む可能性が発生する」というのは、面倒くさがりにとっては非常に大きな前進ではないでしょうか。

一日に何時間も集中する必要はないのですよ、ちょっとずつ切り崩していけばいいのです。

 

 

あと、パスタは安くて美味しいですしね。

麺自体はAmazonとかでまとめ買いしておいて、パスタソースはドラッグストアで激安で売ってるのがオススメです。湯煎が面倒だという筋金入りの怠け者は湯煎不要のものでもいいでしょう。ちょっと値が張りますが。

 

 

あ、「安くて美味しいから」が入ると「たった一つの理由」にはならないですね。

まぁいいでしょう、こういうのはインパクト重視ですよ。

「パスタは安くて美味しいからこの記事は釣り!」とは誰も言わないでしょう。

 

 

さて、今日の記事はこんな感じです。

もちろん個人差の出る方法ですが、私はこの方法で数多の洗い物を始末してきたので、ある程度自信をもってオススメできます。

あなたもパスタを茹でて、自堕落な生活から脱出しましょう。

 

さて、私はブログを書き終えたので、フルグラで晩御飯を済ませてゲームして寝ます。

洗い物は明日でいいや。