月末偉いマン
はじめまして。
自分のことを美少女Vtuberだと思い込んでいる水槽の脳だと思い込んでいる成人男性系Vtuberの久遠ありあです。
昨日の記事で「明日は電話します」と宣言した効果か、今日は無事体が動き、ようやく転職に向けて一歩を踏み出すことができました。
いやー偉い。偉いなー私。
当たり前のことが当たり前にできたことをどんどん褒めていきますよ。でないと精神がもちませんからね。
ここまでくるのに2週間の何もしてない期間があったとしても、それでも私は偉いしすごいのです。なんだかんだ2月が終わるまでに活動開始できたのも偉い。偉大。
こういう風に、自意識の健康を保つために積極的に自分を褒めてやりたいわけなんですが、そういう理屈を自覚してやってるところあたりが非常に空虚ですよね。
この虚飾を事実だと思い込めるほど私の自我は優しくないのです。
ちょっと前に「全肯定シリーズ」みたいなのがSNS上で流行ったじゃないですか。
丸っこいかわいらしいキャラクターが「生きてて偉いっ」とか「歩けるのすごい!」とか褒めてくれてたアレです。
アレがすごく苦手だったんですよね私。「呼吸できるなんて、尊敬に値しますよ」なんて言われても「は?」としかならなかったんですよね。
「全肯定」が趣旨である以上は、誰にでもできるような行為を対象にして褒めるのがそりゃ妥当なわけですが、どうしても「そんなわけねーだろ」という自意識による否定の方が勝ってしまいます。
というかそもそも私は褒められるのが苦手なんですよね。
自分を肯定することに慣れていないというか、他人からどう巧みに褒められても「でもなぁ」とそれを否定してしまう自分がいるわけです。
しかし、そんな具合に自己評価は低いのにプライドばかりは人一倍高くて、もうどうしようもねぇやって感じです。
中島敦の『山月記』に「臆病な自尊心に尊大な羞恥心」という表現が登場しますが、まさしくこれですよね。
今度『山月記』を再読して記事に感想文としてまとめてみるのもいいかもしれません。
……「いいかもしれません」なんてのも、結局記事の文字数をうまいこと埋めるためだけの方便で、実際に再読する気力なんてありはしません。賢しらぶってるだけです。
そういうことなんです。
この致命的な自我の溝を克服する手段は果たしてあるんでしょうか。
時間が解決する、という万能文句は一応使っておくとして、私が究極的に望んでいるのは結局のところ、劇場版ヱヴァンゲリヲン(Air/まごころを、君に)のクライマックスである補完された世界だとか、小説『ハーモニー』の自我の消滅した世界だとか、そういう外部からの解決なんですよね。
自我を継続すること、自分でい続けること。生きている限り常に付きまとう根源的な問題です。
今日は取りあえず転職の糸口を見つけて偉い、ということが言いたかったわけですが、職が見つかったということは生命を継続するということでもあり、この苦悩を抱え続けるということでもあるわけで、ままならないなぁ、って感じですね。
それでも取りあえず生きているうちは生きましょう。死を直視するのは苦悩よりも恐ろしいので。