今日も物質

必死で存在しています。

叙述的存在者の憂鬱

久しぶりのブログ更新ですね。

ご無沙汰しております。ケチャップです。

久遠ありあちゃんは、しばらく、あるいは永遠に眠りについたようです。このことについてもいずれお話したいところですね。

 

 

さて、このブログ「今日の物質」が開設されてから、実に二年の月日が経過しました。

半年程度のブランクを数回挟んでいるので、実際にブログを書いている期間はそれほど長くはないんですけどね。

記事の数も300弱、開設してから今日まで、実に半分以上の時間を休載していることになります。

 

 

しかし、私はまたここに戻ってきました。

理由としては、主に二つあります。

まず、「外に出て働くという生き方がどうしても嫌になったから」、次に、「新しいパソコンを買ったから」です。

 

 

私は今年の4月から9月まで派遣労働者として工場で働いていたんですが、「残業がキツい」という理由で辞めて以来、まったく再就職へ向けての活動が出来ないでいます。

当初は「10月は体を休めながら復職できるように頑張ろう」と息巻いていたんですが、体を休めることも復職することもできずに過ごしてしまいました。

 

一度はいわゆる「社会人」になることができたというのに、ニート生活に戻ってからは完全に心が折れてしまっています。もうあんな環境に身を置きたくない。外に出たくない。働きたくない。

 

そういうわけで、在宅で生命を維持する方法をまた探しているというわけなのです。

なんだかんだいっても、このブログは私が「在宅で生命を維持する」ことを考えたときに最初に思い付いたモノですから、愛着も蓄積もあります。

一度はGoogleAdSenseの審査にも通ってますからね。まぁ独自ドメインが失効したり設定のやり方が分からなかったり広告の有効な設置場所が分からなかったりで収益を受け取ったことは一度もないんですが、完全に0からのスタートよりは幾らかアドバンテージがあるでしょう。

 

 

 

あとは、パソコンを買い替えたから、という理由についても書いておきましょう。

 

買い替えたんですよパソコン。つい昨日のことです。

先代のパソコンはSキーにZキーに上キーに右キー、そして充電端子にと色んなところにガタがきていましたから、買い替える機会をずっと窺っていたのです。

 

これまでキーボードを外付けしたりキーの下にある感圧版を無理やり押したりしてどうにか文字を打っていたんですが、ブログのような長文を書く際にはやはりこれらのキーが欠けているのはどうしても不便です。

ノートPCに外付けキーボードはそりゃもう阿保みたいな使い勝手ですし、ZはまだしもSは子音としてかなりの頻度で使います。方向キーがイカれてると文中の移動にも苦労しますし、なによりこれらのキーが機能不全だとブログ以前にゲームもできません。

 

とまぁ、PCの不調がブログから遠ざかる原因の一つだったわけです。

直接の原因は「仕事で時間がないから」「書くべきことを見失ったから」とかそういうもんですが、間違いなく筆不精の遠因にはなっていたはずです。

 

 

 

そういうわけで、またこのブログに舞い戻ってきたというわけなのです。

以前のように毎日投稿、というわけにはいかないかもしれませんが、まぁ、書くネタが尽きるまではちょくちょく更新するようにしようと思います。

そしてまた失踪したり、また戻ってきたり、今度こそ失踪したり、あるいはこれを生業にすることに成功して無事不労所得へ……と、色々な可能性があります。

 

何はともあれ、こうして長々と自分語りができるような媒体を取り戻せたのは私にとって非常に嬉しい事です。

私の座右の銘、というかこの世で唯一信じている句は、「人間は叙述的存在者である」ということです。句というか、まぁ自前でこさえたそれっぽい屁理屈なんですけどね。

 

ありとあらゆる人間は叙述的存在です。

目の前の現象について絶対的な視座を持たず、それが恣意的なものであるかどうかにかかわらず、自分で判断し、「~は~である」と述べることでしか現実を確かめることができません。

「否」と唱える人もいるでしょう。しかし、その「否」も、一つの叙述に過ぎないのです。少なくとも、私の叙述する世界ではそういうことにしています。

 

結局何が言いたいのかというと、「叙述の場が出来ることは好ましいことだ」ということです。

私の定義では、文字や言葉といった発信以前、思考の段階ですでに叙述は始まっているということになっているのですが、それでも、何らかの形にできるというのはやはり違った意味を持つと思うのです。

 

塞ぎ込んでいる期間が人生の中で相応の割合を占める私の経験則にすぎませんが、自身の内容を形にできない、発信できないというのは、そこそこストレスがたまる環境であるようなのです。

苦しくても「苦しい」と言えなかったり、そもそも自分が苦しんでいることに気づかないままに傷み続けるのはできる限り避けたいのです。

 

 

さて、話が逸れに逸れましたが、一応これで何度目かのブログ再開の挨拶としようと思います。

暇な時にでもお付き合いください。