ジャネーの法則から考える「はじまり」「おわり」
カロリーメイトを箱買いして食っては寝るだけの生活をしていると、時間の流れが物凄く早く感じます。もう11月も半ばですね。
ケチャップです。
さて、今日はその時間の流れについてのお話です。
読者の皆さんは「ジャネーの法則」というものをご存じでしょうか。
ごく簡単に説明すると、「主観時間の感じ方は若ければ若いほど長く、老いていれば老いているほど短い」というものです。
Wikipediaさんでは具体例とともにより分かりやすく説明されています。
私自身の体験談もお話しておきましょう。
例えば、以前の職場で40代半ばくらいの上司に「みんな同じ時間残業してるのに自分だけ定時で帰るとか後ろめたく感じたりしないの?」みたいな調子で残業を仄めかされたとき、私は「後ろめたさなんて全く感じないし、私にとっての残業時間はあんたにとっての残業時間の2倍近い価値があるんじゃいこのワーカホリックめ」という恨み言を必死で喉の奥に留めておいたりしていました。
まぁこの恨み言の是非は置いておいて、要するに「時間の感じ方には個人差があって、それは年齢と密接な関係にあるよ」ということをこの法則は提唱しているわけです。
ほんとぉ??って思いません?
いや、言いたいことは分かるし理屈も通ってると思います。先に述べたように私もこの法則をだしにして残業を憎んだことがありますし、なんなら「時間の流れが年々早くなっていっているような気がするなぁ」とも感じます。
しかし、この「ジャネーの法則」が字面通りに正しいものだと仮定すると、ちょっと信じがたいというか、驚くべき結論に至ってしまうのです。
その結論とは、「人間は生まれながらに無限を経験している」というものです。
読者の皆さんはほぼ例外なく「オギャア」と叫んで生まれてきた経験がおありかと思います。
この「オギャア」の「オ」からのカウントなのか、それとも母親の胎内で夢を見ているときからのカウントなのかは決めずにおきますが、どちらにせよ「その生命の主観的時間のはじまり」の瞬間があるのは明らかです。
生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)
「はじまりの瞬間」は無限小の時間ですから、その体感時間としては無限大のものになるはずだ、ということです。
限りある命を持つ生者は、皆「無限を経験して」「無限を終えて」ここに立っている、
そんな矛盾しているような結論が成立してしまうわけです。
まぁ、「主観時間の始まりが出生の瞬間にある」というのも、この記事を成立させるためのかなり恣意的な仮説なんですけどね。
しかし、かのカント大先生曰く、「時間と空間という形式は人間にア・プリオリに備わっている」ものであるらしいので、それで正しいのかもしれません。
私はカントの勉強を途中で放り出して大学を辞めた人間なので、この解釈自体も出鱈目かもしれませんが。
もはや「私が「我々は無限を通って生まれてくる」という記事を書くためにジャネーやカントの説を剽窃したうえで誤用している」とさえ言える気がしてきました。
実際、私はこの「無限を経験した有限の命」というテーマに魅了されてしまっているのです。
だって、字面からしてめちゃめちゃ面白いじゃないですか。
それと「無限大の時間を生きた人間は死ぬ瞬間を無限小のものとして経験する」という説も同時に言うことができるでしょう。
無限大の時間を生きた人間はおそらく存在しないので立証することはできませんが、「長生きした人は眠るように逝く」と言われれば、なんとなくそんなイメージはありますよね。
逆に、若くして命を終えた人、例えば交通事故などで亡くなる人が死ぬ瞬間は、長生きした人の数倍から数十倍の長さになるはずで、この主観時間が、いわゆる「走馬灯」と呼ばれるのではないか……なんてことも考えてみました。
まぁ、死人に口はないので、両者に「死ぬ瞬間どうでした?」と聞いても答えが返ってくることはないんですが。
明日は今日より短い、明日は明後日より短い、そう考えると、「もっと命を楽しまなきゃ」と逸る気持ちが湧いてきますが、まぁ、まったりするのが一番ですね。
体動かないし。