今日も物質

必死で存在しています。

自動プロット出力装置

Wi-Fiがなくなるとなんもできない。

 

ケチャップです。

 

 

先日の記事ではネタ切れが云々とかいう内容を書いたので、ここでネタ切れに関する話題をもう一つ。

 

「自動プロット出力装置」についてです。

 

自動プロット出力装置とは、自動でプロットを出力してくれる装置のことです。

何も説明してないですね。

簡単に言えば、「使用者の脳内にある「文章化したいけど色々な事情があってそれができない文章」を、脳のスキャンなりAIなりの任意の技術を用いて文章(の雛形)にしてくれる装置」です。

「文章化」のところは、「映像化」でも「音声化」でも構わないでしょう。

「書きたいけど書けない」という状況を抜本的に解決する、SF的な装置、そう想定してください。

 

私もブログを書いていて、この手の装置があればどれだけいいだろう、と考えたことが何度もあります。

「書きたいけど、内容が膨大すぎてまとめきれない、書ききれない」「自分の中でうまく言語化できていない」「そもそもその文章が面白いのかどうかを自問して世に出すのが怖い」などなど、アウトプットに関する悩みというのは無数にあるものですからね。

もちろん私に限った話ではなく、創作を生業としている人、あるいは一般的に「自分の言いたいことをなかなか言えない人」「自分が何を考えていて何をしたいのかを整理できない人」なんかにもありがたい代物になるでしょう。

 

 

今日は、その「自動プロット出力装置」が実際に存在したらどのような現象が起こるのかを考えていこうと思います。

 

まず第一に、そのような装置が実現し普及したのならば、「言説の氾濫」が真っ先に発生するでしょう。

ただでさえSNSの発達であらゆる人間が(環境が整っていて、そのつもりがあるならば)発信者となっている現代です。

「言葉ならざる言葉」を言葉に押し上げる自動出力装置が実現すれば、ネット上に溢れる言説は現状の比ではないほどに膨れ上がるでしょう。

 

ただ、SNSといった発信の場は現在でもかなり広いものであるとはいえ、「広い」どまりです。

「ありとあらゆる地域の、ありとあらゆる人が、ありとあらゆる言説を」という状況には到底達していません。

発信を行わない、行うことができない層が存在し、「発信者のためのデバイス」が急激に普及した場合、氾濫した「発信者目線の情報」ばかりが注目され、非発信者の「言葉」は蔑ろにされがちになるでしょう。これは、「自動プロット出力装置」なるものが存在していない現在でも確実に起こっていることです。

「黙殺」ですらありません。なにしろ認識されないのですから。認識されないのは存在しないのと同じです。

 

まぁ、これは「発信者」が大多数になった場合の話ですね。

Twitterなんかに入り浸っているとついつい忘れがちですが、この発信者というのは巨大なマジョリティではないのです。

発信を行わない層(完全に偏見ですが、ワイドショーなどを好んで観る人々など)のほうが依然多いはずです。いや、アンケートを取ったわけではないので分かりませんが。

 

 

では「自動プロット出力装置」がそういった人々を発信者側に流入させないかというと、そんなはずはないでしょう。

「自分の言いたいことを自在に出力できる」ようになることを契機に発信者になってみる、というのは十分にあり得る動機です。

情報はますます氾濫し、ますます多様化していくでしょう。

 

 

そうすると、次に「言葉の無価値化」が起こるでしょう。

何しろ無限に言葉が溢れているのですから、一個一個に注目している時間などありはしません。モノが増えれば価値は低くなる、当然の道理です。

 

「発信者の増加」は、逆説的に「インフルエンサー」と呼ばれる人々やニュースサイトのフォロワーの増加を促します。

もちろん、発信者が増加するのでそのインフルエンサーやニュースサイト自体の数も増えるのは間違いありませんが、「発信者が増加にともなってインターネット上の相互交流も爆発的に増加する」かどうかは怪しいところです。

結局のところは発信といっても「有名人の発信に対する賛同、否定」が激増するにとどまるのではないか、と考えられます。

 

 

また、これは個人的な危機でもあるのですが、「自動プロット出力装置」はかなり大規模な「自尊心の破壊」をもたらす可能性があります。

 

「俺は他のやつとは違う」「自分は類稀な人間だ」というプライドを持っている人間は、私を始めとして多くいるはずです。

「自動プロット出力装置」は、彼らの秘められた「面白さ」を世に出してくれるのと同時に、「面白くなさ」を浮き彫りにしてしまう可能性もあるのです。

 

「自分は思っていたよりも大したことなかった」というのが、文章化されることで明示されてしまうわけです。

大した文章が出力されなかったり、出力した文章が大した反響を得なかったり、といった事態によってそれが起こります。

そうした人々も、「無価値化」の波から逃れることはできないわけです。

 

 

 

さて、何やら色々と書いてみましたが、かなりぐちゃぐちゃな記事になってしまいました。

こんな時、「自動プロット出力装置」があれば、そのプロットに合わせた整った文章が書けるのになぁ、と思います。

 

いや、どうでしょうね。

一通り書いて気づきましたが、「自動プロット出力装置の台頭によって起こりうる事態」を書いたつもりで、「今の私が今のSNSについて思っていること」を書いているだけになっています。

 

私の想像力が貧困なのか、SF技術が地続きになっていることの証なのか。

後者であってほしいものです。