今日も物質

必死で存在しています。

チラシの裏の恨み言

ここ最近、ものを考えるということがどんどん嫌になってきている。

 

内在化した他者がありとあらゆる思考に割り込んで、それを片端から台無しにしていく。
例えば動画を観たりゲームをしたりしている最中も、「こんなことに夢中になるなんてどうかしてる」だとか、「全然面白くないじゃん」みたいに、自動で粗を探して楽しんでいるのを邪魔してくるのである。
こういった「文章」にする際にもそれは顕著で、キーボードを叩いているとたちまち文章や文章以前の思考が無意味か蛇足かその両方であるという発想が強度を高めていく。


Twitterのトレンドが目に入っては色々な他者を見つけ、彼らを心底毛嫌いしつつも、着実に自分の内側に彼らの視点を増やしている。私を守ってしかるべき私の無意識にずっと苦しめられている。もちろん守ってくれてもいるんだろうけど、それならもっと徹底して守ってほしい。この無意識の在り方は私にとって本意ではなく、「生命のバグ」だとか「無意識の暴走」と形容して片付けてしまいたくなる。「片付けてしまいたくなる」というあやふやで思い切りに欠ける言い方がまさしく自己否定の結果であり、自分を傷つける武器の鋭さの代わりに「うまい表現」をするための武器はどんどん鈍くなってきている。

「~している」「~だ」という形で文章を終わらせるのに必要なエネルギーがどんどん増えている。
捕捉に次ぐ捕捉、言い訳の言い訳、誰に聞かれているわけでもないのに勝手に言葉を先回りして自分の道を塞いでいる。

孤独な時間が長引くにつれて、他人からの視線にはどんどん敏感になっている。根本的には孤独なので、「他人からの視線」とはいっても、得意の内在化した他者の視線にすぎず、内在化した他者というのは常に自我と相互に参照し続ける以上互いに歪めあっている。
「他人の視線に敏感なのに、肝心の真の意味での「他人」の視線の内容については歪んだ理解しかできておらず、彼らとのコミュニケーションが円滑に進むわけではない」のである。
内在化した他者が自分を歪め、歪んだ自分が現在の他者との関係の解釈を歪める。時が進むごとに自分が拗れていく悪循環が発生している。


当初は飯の種にするつもりで始めたブログだったが、自分の文章及びキャラクターを金にしてやろうという気概や自身はもうなくなってしまっている。
今日のような愚痴や「金がないから助けて」というような、コンテンツとしては下の下になるようなものしかもはや発信できず、完全に行方を見失ってしまっている。
辺りを見回すと働いていなくても自分をコンテンツとして切り売りすることで生き長らえている人々がそこそこ見つかって(「辺り」が途方もなく広くなってしまっている)そういった人々が羨ましく、妬ましい。どうして自分はこうなっていないのだろうということばかり考える。もちろん年季の違いに蓄積の違いがあるからそうなっていないのは理解できるし妥当だとも思うけれども、それでも羨ましいものは羨ましい。
当然働いていなくても食っていけている人より働いていなくて食うに困っている人のほうが絶対数は多いだろうけど、前者のほうが確実に目立つ。そして何より死体は喋らない。