今日も物質

必死で存在しています。

どうして人は辛いカップラーメンを買ってしまうのか

全財産が財布の中の一万五千円のみとなり、本格的に生存が難しくなってまいりました。

ケチャップです。これからどうしよう。

 

 

「職なし学なしやる気なし」な期間を過ごしたことのある人々には分かっていただけると思うんですが、こういう状況になって一番困るのって正直「食費」じゃありませんか。

 

最悪な話をすると、家賃や光熱水費や保険料ってある程度滞納しても「明日」とか「来週」は生きていけるんですよね。

もちろん滞納しすぎたり支払いを放棄したりすると家や生活インフラを失ってグンと死が近づいてくるのは間違いないんですが、それは明日とか来週ではないのです。恐らくは。

 

問題なのは食費なんですよ。生物である以上、食わねば飢えます。飢えれば死にます。

生理的な問題ですから億ション住みの大富豪であろうが路上生活者だろうが関係なく食というのは必要不可欠なのです。

そして当然ながら前者は食に困ることはなく、後者は糊口をしのいで生きていくしかない。まったく、平等でかつ不公平な話です。

 

 

幸いなことに未だ私は路上生活者ではないのでこうしてブログを書いたりドラッグストアで安い食料品を買い漁ったりすることができているわけですが、いよいよ「明日は我が身」という言葉が現実味を帯びてきています。

それに対して全く策を講じたり体を張ったりする気力がないのが私の致命的にダメな部分なんですが、まぁ本題ではないので割愛。

 

 

本題というのは、「どうして人は辛いカップラーメンを買ってしまうのか」という話です。

皆さん、辛いカップラーメンはお好きでしょうか。

 

私はあまり得意ではありません。でもたまに買っちゃうんですよ。

日々もさもさとした味気のないものばかりを食べているので、「タンパク質と脂肪でできた辛くて旨いものが食いたい」という衝動に駆られることがしばしばあるのです。

 

 

先日、近くのドラッグストアで食料品の買い込みを敢行しました。

100円弱で売られている200グラム用のパスタ用ミートソースを始めとした安価な食料品を大量に揃えている店で、大学時代から世話になっています。

 

 

で、そこでの買い込みの際にふと「辛くて旨いものが食いたい」という例の衝動が湧いてきて、カップ麺コーナーの前をふらふらとしながら長考状態に入りました。

辛いカップ麺って結構種類があるじゃないですか。

もうめちゃくちゃ辛さ全振りのものに、「辛くて旨い」を謡うもの、あと台湾ラーメンに焼きそばや油そば風のものなどなど、びっくりするほどバリエーション豊かです。

そして安い。辛いカップラーメンというのはなぜか安価なものが多い気がします。なんでなんでしょうね。

 

先述したように、私はあまり辛いカップラーメンがあまり得意ではありません。

ですので、できるだけ辛さと旨さが共存していそうな、少なくともそれを売り文句にしているものを買い、他の食料と一緒に愛用のママチャリに載せて帰りました。

 

他の食料をそこそこ大量に買ったのに対して、このラーメンは一品だけ、故に他のものに飽きたタイミングで食べようと放置していて、それが今日だったわけです。

 

 

で、まぁ、失敗しました。

いまいちでしたね。はい。やはり得意じゃないものは得意じゃないです。

辛さも旨さも半端というか、味にパンチがないというか、値段相応というか、まぁそんな感じでした。

旨さを求めて激辛を掴んで失敗することが多かった身としては珍しい体験ではありましたが、珍しいだけで特に嬉しかったりはしません。

 

「私には辛いカップラーメンは向いていないんだ、これからは買うのは控えよう」というのが食後の感想ですが、前の失敗でも前の前の失敗でも同じことを考えていたに違いなくて、きっといずれまたこの失敗を繰り返してしまうのでしょう。

 

 

もしかしたら、私もいずれ運命の「辛いカップラーメン」に出遭い、食生活に刺激を取り戻すことができるのでしょうか。今はまだ道の途中、そういうことなのでしょうか。

 

行き倒れる前にこの道の果てを見てみたいものです。

 

 

あ、広告は蒙古タンメン中本さんですが、記事中で触れているのは中本さんではないです。悪しからず。