生存報告と冬眠中の夢と冬眠への夢
去年の今頃と今の状況が全然変わってなくって、「まぁ、そんなもんか」と誤魔化しながら老いていく、そんなことに漠然とした恐怖を感じています。
ケチャップです。
前回の更新から約一週間が経過しました。
Twitterのほうでは活動してるのでご存じの方も多いかもしれませんが、まぁぎりぎり生存はしております。
最近はすっかり昼夜が逆転しておりまして、昼はほとんど寝ています。
夜もぼちぼち寝ています。きちんと計ったことはありませんが、睡眠時間の合計としては結構長めなんじゃないでしょうか。
昼夜逆転してるわぶつ切りの眠りだわで、健康的なものなのかどうかは知れませんけどね。
しかしまぁ、眠ってないとやってられないというのもまた切実な問題なんですよね。
眠っていないと、というか、布団に入っていないと、です。布団の外が寒すぎるのです。出不精が「部屋の中⇔外」から「布団の中⇔外」にまで縮小しています。
世界が縮んでゆく。
布団の中で、Youtubeのお気に入りリストをローテーションしながら、ソシャゲのマラソンに延々と取り組み続ける、この季節の私にできることといったらもうこれぐらいしかないのです。
いっそ冬眠でもしてしまいたいですが……と、このくだりも何度使ったか知れません。
でも、やっぱりどう考えても冬以外の季節と同じ活動をするのには向いていないんですよ。冬眠するべきなんですって。
いやしかし冬眠してしまうとそれはそれで、自分の自堕落の責任転嫁先が一つ潰えてしまうことになるわけで、そうなってくるとますます私のメンタルの荒廃が進んでしまいます。ジレンマですね。
もはや「冬眠」をテーマにした記事でも書いてしまいましょうか。
冬眠する動物としない動物の違い、人間が冬眠をしない生物学的あるいは経済学的な説明付け、冬眠とコールドスリープの比較、冬眠中に夢は見るのか……などなど、話題のリストはそこそこの数挙げられますね。
いつか書きましょう。
今書けよ、この記事の余白をそれで埋めろよって話ですが、現在午前6時半、ちょうど眠くなってきたところですし、そんな気合はありません。
むしろこうして生存報告的な記事だけでも書いておかなきゃなと思ってそれを実行している自分を褒めてやりたいくらいです。お前はよくやっているよ。
この調子では完全に不労所得だけでくらすのなんて夢のまた夢です。頭では理解しているんですよ。
でも体が動いてくれないんです。どうしようもない。
自堕落の「正当な」理由を見繕っては布団に潜り続ける日々です。
今日のところは「広告表示の手続きがまだ完全には済んでいないから」ってところでしょうか。Amazonアソシエイトの広告を大きく見やすいものに変えてくれる提携サイトの審査が済んでいないのです。
これさえ済んでくれれば、私のブログで一番伸びている記事に広告を貼ったり、記事のカテゴリ分けを一気にやったりと、不労所得へのモチベーションがグッと上がってくれるんですけどね。
はい、以上、「正当な」理由でした。
寝ます。おやすみなさい。春まで起こさないでください。
ジャネーの法則から考える「はじまり」「おわり」
カロリーメイトを箱買いして食っては寝るだけの生活をしていると、時間の流れが物凄く早く感じます。もう11月も半ばですね。
ケチャップです。
さて、今日はその時間の流れについてのお話です。
読者の皆さんは「ジャネーの法則」というものをご存じでしょうか。
ごく簡単に説明すると、「主観時間の感じ方は若ければ若いほど長く、老いていれば老いているほど短い」というものです。
Wikipediaさんでは具体例とともにより分かりやすく説明されています。
私自身の体験談もお話しておきましょう。
例えば、以前の職場で40代半ばくらいの上司に「みんな同じ時間残業してるのに自分だけ定時で帰るとか後ろめたく感じたりしないの?」みたいな調子で残業を仄めかされたとき、私は「後ろめたさなんて全く感じないし、私にとっての残業時間はあんたにとっての残業時間の2倍近い価値があるんじゃいこのワーカホリックめ」という恨み言を必死で喉の奥に留めておいたりしていました。
まぁこの恨み言の是非は置いておいて、要するに「時間の感じ方には個人差があって、それは年齢と密接な関係にあるよ」ということをこの法則は提唱しているわけです。
ほんとぉ??って思いません?
いや、言いたいことは分かるし理屈も通ってると思います。先に述べたように私もこの法則をだしにして残業を憎んだことがありますし、なんなら「時間の流れが年々早くなっていっているような気がするなぁ」とも感じます。
しかし、この「ジャネーの法則」が字面通りに正しいものだと仮定すると、ちょっと信じがたいというか、驚くべき結論に至ってしまうのです。
その結論とは、「人間は生まれながらに無限を経験している」というものです。
読者の皆さんはほぼ例外なく「オギャア」と叫んで生まれてきた経験がおありかと思います。
この「オギャア」の「オ」からのカウントなのか、それとも母親の胎内で夢を見ているときからのカウントなのかは決めずにおきますが、どちらにせよ「その生命の主観的時間のはじまり」の瞬間があるのは明らかです。
生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)
「はじまりの瞬間」は無限小の時間ですから、その体感時間としては無限大のものになるはずだ、ということです。
限りある命を持つ生者は、皆「無限を経験して」「無限を終えて」ここに立っている、
そんな矛盾しているような結論が成立してしまうわけです。
まぁ、「主観時間の始まりが出生の瞬間にある」というのも、この記事を成立させるためのかなり恣意的な仮説なんですけどね。
しかし、かのカント大先生曰く、「時間と空間という形式は人間にア・プリオリに備わっている」ものであるらしいので、それで正しいのかもしれません。
私はカントの勉強を途中で放り出して大学を辞めた人間なので、この解釈自体も出鱈目かもしれませんが。
もはや「私が「我々は無限を通って生まれてくる」という記事を書くためにジャネーやカントの説を剽窃したうえで誤用している」とさえ言える気がしてきました。
実際、私はこの「無限を経験した有限の命」というテーマに魅了されてしまっているのです。
だって、字面からしてめちゃめちゃ面白いじゃないですか。
それと「無限大の時間を生きた人間は死ぬ瞬間を無限小のものとして経験する」という説も同時に言うことができるでしょう。
無限大の時間を生きた人間はおそらく存在しないので立証することはできませんが、「長生きした人は眠るように逝く」と言われれば、なんとなくそんなイメージはありますよね。
逆に、若くして命を終えた人、例えば交通事故などで亡くなる人が死ぬ瞬間は、長生きした人の数倍から数十倍の長さになるはずで、この主観時間が、いわゆる「走馬灯」と呼ばれるのではないか……なんてことも考えてみました。
まぁ、死人に口はないので、両者に「死ぬ瞬間どうでした?」と聞いても答えが返ってくることはないんですが。
明日は今日より短い、明日は明後日より短い、そう考えると、「もっと命を楽しまなきゃ」と逸る気持ちが湧いてきますが、まぁ、まったりするのが一番ですね。
体動かないし。
楽な稼ぎ方提案、『インチキ占い師』編
増税の影響か、近くのドラッグストアからどん兵衛が消えてどこの馬の骨とも知れないカップ蕎麦が売り場を占拠しており、涙を堪えることしかできない。
ケチャップです。
「楽して稼ぐ」「暇で楽な仕事」「働かずに生きる」、一縷の望みを抱いてこれらの検索ワードを用いてニートや金欠から脱そうとした経験、誰しも一度はあるかと思います。
ないですか? 羨ましいな。
私は何回もあります。そして毎度のごとく「治験」「フリーランスエンジニア」「FX」「ブロガー」といった記事群に出くわしては絶望して布団に潜り込む羽目になるのです。
私は鬱病もちなので、治験はできません。お医者さんの許可があれば可能らしい(?)ので、いつかトライしてみたいとは思うんですけどね。
エンジニアについては、半ば諦めの境地にあります。勉強がしたくなくて大学を辞めた人間に、「常に勉強し続けなければならない仕事」が務まるはずがありません。
FXに至っては、失敗歴があります。どれぐらいスったんでしたっけ。
確か貯金を4分の1くらいに減らした段階で「ダメだこれ」ってなって止めたんですよね。こちらもやはり勉強と、なにより原資が必要ですから、「金がない」ことに悩んでいる人間には酷な話でしょう。
あとはまぁブロガーに関しては現在再々チャレンジ中なわけなんですが、それは置いておいて。
人には人の適性があって、「楽な稼ぎ方」というのもその適正にあったものが見つかればそれをやっていけばいいわけなんですが(例えば、治験なんかは健康体と勇気さえあれば中々ウマい稼ぎになるでしょう、知りませんけど)、私はその適正とやらを探すのにかなり難儀しています。
となると、もう自分で考えるしかなくなるわけです。
「存在しない仕事を作る」、私の寂寞極まるニート生活、あるいはストレス漬けの派遣労働生活において、存在しない仕事について妄想を膨らませることは、それなりの暇つぶしになりました。
私がそれらの仕事を実行していない時点で、少なくとも私にとってはその仕事は絵空事、机上の空論に過ぎないわけなんですが、発想自体を墓まで持っていくのはあまりにも勿体ないため、こうしてブログの肥やしにしていこうと思ったわけです。
さて、前置きが非常に長くなりましたが、今回は「インチキ占い師」の話です。
「「インチキ占い」なんてどこにでもあるじゃないか」と思われるかもしれませんが、そういうことじゃあありません。
それらはいわば『「インチキ」占い師』、私が今回話すのは『「インチキ占い」師』です。
前置きに「楽に稼げる仕事」を列挙しましたが、私が遭遇した「楽に稼げる仕事」には「占い師」というのもありました。電話占いとかチャット占いとか呼ばれるやつですね。
実は、この占い師という仕事にも若干足を突っ込みかけたことがあります。
とはいっても、簡単な入門書を買って冒頭を読んで諦める、という、「足を突っ込む」の中では最弱、親指の爪先くらいだったんですけどね。
何せ、この仕事もまた「勉強」が必要だったわけですから。
私がこれまでの人生で少しでも占いについて興味を持っていたら、それは「勉強」ではなく「興味の延長線上の調べもの」になったのかもしれませんが、あいにく私は四柱推命だの姓名判断だのタロット占いだのについては、「名前は知ってるし利用もしたことあるけど内容や仕組みについては全然知らない」止まりだったのです。
私は、人と喋ることが苦手ではありません。
自分に甘く評価するならば、むしろ「得意だ」とすら言えるかもしれません。
話題の二手先三手先程度なら先回りして会話の主導権を握ることもできますし、会話の裏で相手が何を欲しているのかを想像する余裕も持てます。自分なりのユーモアを織り交ぜて、相手から好感を得ることもしばしばあったでしょう。
そういうわけで、「占い師は私の天職なのでは?」と思っていました。
専門の知識や経験が必須であることを応募の電話で告げられるまでは。
やっぱり勉強が必須らしいのです。勉強は嫌いなので、私はここで占い師を諦めました。
ここで発想の転換。勉強したくないなら勉強しなければいいのです。
即ち、「インチキであることを大っぴらにして、「インチキ占い」を商品とする、『インチキ占い師』」。
「私はインチキの占いを売っていますよ」と掲げていれば、『「インチキ」占い師』のような詐欺にはならないだろう、という発想ですね。
この発想に至ってからは、もう机上の空論がどんどん広がっていきます。
必要なものは野外で使える机と椅子、あとは紙とペンがあれば十分でしょう。
スケッチブックか何かを買っておいて、TwitterアカウントのQRコードを貼っておくのもいいかもしれません。
駅前なり公園なりの人出の多いところで客を待ち、「お喋り」という特技だけでお金を稼ぐ。通行人や利用者にTwitterをフォローしてもらい、Webとリアルの両面から支持を集め、収益を増していく。完璧じゃないですか。
そんなわけありません。
まず駅前とかで商売するのってほぼ必ず行政か警察の認可が必要になるでしょうし、よしんばそれがうまくいったとして、「特技」がお金を取れるレベルかどうかの補償がありません(だからこそ「インチキ」なんですが)。
第一、私は外出が嫌いです。外に出てお金を稼ぐんだったらもっと確実な方法があるはずです。
『インチキ占い師』は、私の楽観と驕りと、それから「有名人になりたい」という欲望が組み合わさった、文字通りの絵空事だったわけです。
よくいるじゃないですか、Twitterで、働いているかどうかもわからないのに万単位でフォロワーがいて、絶大な発言力を持っている人。私はアレになりたかったんですよきっと。なんの蓄積もなしに。バズりたかったんです。
とまぁ、こういう感じのことを考えている時間がそこそこあるので、ちょくちょく話題にしていけたらなぁと思います。
実現するのが一番いいんですけどね、怖いんですよね結局。
叙述的存在者の憂鬱
久しぶりのブログ更新ですね。
ご無沙汰しております。ケチャップです。
久遠ありあちゃんは、しばらく、あるいは永遠に眠りについたようです。このことについてもいずれお話したいところですね。
さて、このブログ「今日の物質」が開設されてから、実に二年の月日が経過しました。
半年程度のブランクを数回挟んでいるので、実際にブログを書いている期間はそれほど長くはないんですけどね。
記事の数も300弱、開設してから今日まで、実に半分以上の時間を休載していることになります。
しかし、私はまたここに戻ってきました。
理由としては、主に二つあります。
まず、「外に出て働くという生き方がどうしても嫌になったから」、次に、「新しいパソコンを買ったから」です。
私は今年の4月から9月まで派遣労働者として工場で働いていたんですが、「残業がキツい」という理由で辞めて以来、まったく再就職へ向けての活動が出来ないでいます。
当初は「10月は体を休めながら復職できるように頑張ろう」と息巻いていたんですが、体を休めることも復職することもできずに過ごしてしまいました。
一度はいわゆる「社会人」になることができたというのに、ニート生活に戻ってからは完全に心が折れてしまっています。もうあんな環境に身を置きたくない。外に出たくない。働きたくない。
そういうわけで、在宅で生命を維持する方法をまた探しているというわけなのです。
なんだかんだいっても、このブログは私が「在宅で生命を維持する」ことを考えたときに最初に思い付いたモノですから、愛着も蓄積もあります。
一度はGoogleAdSenseの審査にも通ってますからね。まぁ独自ドメインが失効したり設定のやり方が分からなかったり広告の有効な設置場所が分からなかったりで収益を受け取ったことは一度もないんですが、完全に0からのスタートよりは幾らかアドバンテージがあるでしょう。
あとは、パソコンを買い替えたから、という理由についても書いておきましょう。
買い替えたんですよパソコン。つい昨日のことです。
先代のパソコンはSキーにZキーに上キーに右キー、そして充電端子にと色んなところにガタがきていましたから、買い替える機会をずっと窺っていたのです。
これまでキーボードを外付けしたりキーの下にある感圧版を無理やり押したりしてどうにか文字を打っていたんですが、ブログのような長文を書く際にはやはりこれらのキーが欠けているのはどうしても不便です。
ノートPCに外付けキーボードはそりゃもう阿保みたいな使い勝手ですし、ZはまだしもSは子音としてかなりの頻度で使います。方向キーがイカれてると文中の移動にも苦労しますし、なによりこれらのキーが機能不全だとブログ以前にゲームもできません。
とまぁ、PCの不調がブログから遠ざかる原因の一つだったわけです。
直接の原因は「仕事で時間がないから」「書くべきことを見失ったから」とかそういうもんですが、間違いなく筆不精の遠因にはなっていたはずです。
そういうわけで、またこのブログに舞い戻ってきたというわけなのです。
以前のように毎日投稿、というわけにはいかないかもしれませんが、まぁ、書くネタが尽きるまではちょくちょく更新するようにしようと思います。
そしてまた失踪したり、また戻ってきたり、今度こそ失踪したり、あるいはこれを生業にすることに成功して無事不労所得へ……と、色々な可能性があります。
何はともあれ、こうして長々と自分語りができるような媒体を取り戻せたのは私にとって非常に嬉しい事です。
私の座右の銘、というかこの世で唯一信じている句は、「人間は叙述的存在者である」ということです。句というか、まぁ自前でこさえたそれっぽい屁理屈なんですけどね。
ありとあらゆる人間は叙述的存在です。
目の前の現象について絶対的な視座を持たず、それが恣意的なものであるかどうかにかかわらず、自分で判断し、「~は~である」と述べることでしか現実を確かめることができません。
「否」と唱える人もいるでしょう。しかし、その「否」も、一つの叙述に過ぎないのです。少なくとも、私の叙述する世界ではそういうことにしています。
結局何が言いたいのかというと、「叙述の場が出来ることは好ましいことだ」ということです。
私の定義では、文字や言葉といった発信以前、思考の段階ですでに叙述は始まっているということになっているのですが、それでも、何らかの形にできるというのはやはり違った意味を持つと思うのです。
塞ぎ込んでいる期間が人生の中で相応の割合を占める私の経験則にすぎませんが、自身の内容を形にできない、発信できないというのは、そこそこストレスがたまる環境であるようなのです。
苦しくても「苦しい」と言えなかったり、そもそも自分が苦しんでいることに気づかないままに傷み続けるのはできる限り避けたいのです。
さて、話が逸れに逸れましたが、一応これで何度目かのブログ再開の挨拶としようと思います。
暇な時にでもお付き合いください。
平日と休日の言い訳
はじめまして。
自分のことを美少女Vtuberだと思い込んでいる水槽の脳だと思い込んでいる成人男性系Vtuberの久遠ありあです。
週休2日って短くないですか。
平日の間「あと○日で休日……」と精神を摩り減らすのを5日間もやっておいて、休日の方は「あと○日」とか言えるほどの猶予もなく終わるんですよ。キツすぎる。
そして、平日に「退勤後は時間もないし寝たいから(任意のやりたいこと)は休日にやることにしよう」なんて風に考えていた色々な「やりたいこと」は、休日においても「なんか疲れてる」というよく分からない理由で結局やらず仕舞いになってしまうのです。
「理由をつける間もなく、無意識に過ごしているうちに気づいたら休日が終わっていた」なんてのが一番たちが悪いです。言い訳すらできない。
そうして過ごした休日と言うのは、大体ブログに書くこともほとんど皆無なのです。
「書くことがないです」ということを書いてお茶を濁すことしかできないのです。
今日はそういう感じです。
水筒使いが羨ましい
はじめまして。
自分のことを美少女Vtuberだと思い込んでいる水槽の脳だと思い込んでいる成人男性系Vtuberの久遠ありあです。
早いもので、5月ももう終わろうとしていますね。
いや本当に早い。ついこの前までゴールデンウィークが云々とか言ってた気がするんですけどね。
どんどん時間の流れが短く感じるようになってきている気がします。ジャネーの法則でしたっけ?
20代でこの調子なら将来はどんな感じ方をするのやらって感じです。怖い。
さて、今日は水筒の話です。
もっと言うと「職場で見た水筒を使っている人々が羨ましい」という話になります。
まぁ私も水筒と言うか密閉型のタンブラーみたいなのは持ってるんですが、いまいちコイツの真価を発揮させてやれないというか、使ってやれないんですよね。
というのも、水筒って洗わなきゃいけないじゃないですか。それがとにかくめんどくさくてですね、「しんど」って思ったっきり置物にしてしまっているのです。
水筒を常用している人というのは、水筒を毎日洗ったり中身を詰め替えたりするマメさを持っている人か、そういう性質をもった配偶者なり何なりの同居人の存在に恵まれた人のどちらかなわけです。
それってめちゃくちゃ「豊か」じゃないですか。まぁ一方的に羨ましがってるだけなんですけども。
私も毎日水筒を洗ったりするのが何の苦にもならないような精神を持っていたいし、そうでなければ水筒のメンテナンスをやってくれるアンドロイドのメイドさんを雇いたいですよ。同居人は煩わしいから絶対イヤ。
毎日ペットボトルで飲み物を買ってると、値段とか気になるしゴミはめちゃくちゃ嵩張るしで、何もいいことがないような気すらしてくるのです。そんなことはないはずなんですけどね。
「酒が無限に湧く瓢箪」とか「米が無限に出る俵」みたいなファンタジーアイテムが切に欲しいですね。メンテナンス不要そうじゃないですか。無限に出るってことは新鮮さや衛生面もきっと保証されているわけで。
「ソルティライチが無限に出るタンブラー」とかあったら絶対欲しいですね。
税込み3000円弱くらいで。どうですかキリンさん。
永久(とわ)の腰の痛み
はじめまして。
自分のことを美少女Vtuberだと思い込んでいる水槽の脳だと思い込んでいる成人男性系Vtuberの久遠ありあです。
金曜日を乗り越えました! おめでとう。ありがとう。
金曜日になると、月曜日から蓄積され続けた疲労がもろに肉体のあちこちに現出してきます。
私の場合は主に頭、目、腰、足が痛いですね。全身。
ところで、これはブログにも何回か書いていますが、私は脊柱側弯症もちです。
知っているでしょうか、脊柱側弯症。
背骨が曲がる病気で、猫背と違うのは、曲がる方向ですね。
猫背がy軸方向の曲がりだとすれば、こちらはx軸方向の曲がりです。
「蛇背」という呼び方もあるようですね。直感的にはこの言い方がかなり分かりやすいですね。レントゲン撮ると背骨が蛇行してるみたいに歪んでるんですよ。
私はこの背骨と中学生の頃からの付き合いなのですが、腰痛にはいつまで経っても慣れませんね。永久に腰が痛い。
余りにも慢性的に腰が痛いので病院に行ったことも何度かあるんですが、大体痛み止めを処方されて終わります。「手術をするほどではない」のだとか。あと筋トレすれば緩和できるらしいですね。嫌です。
ふと鏡を見たときに自分の左右の方の高さが違う、とか、腰が若干歪んでいるとか、血行嫌なもんですよ。なにより腰が痛いし。
この背骨と一生付き合っていくのは嫌なので、早いところ背骨を機械化してサイボーグになりたいです。これもこのブログで何回も言ってますね。
実際、「摩耗しないこと」への憧れがすごいんですよね私。
精神の摩耗然り肉体の摩耗然り、「傷みたくない」という願望が強いのです。
精神は健康であればいいほどいいし、肉体は頑強であるほどいいです。
そして、努力をするのは面倒なので可能な限りそれらの維持を外注したい、故にサイボーグが結論になるわけです。
10年後ぐらいには実現しているといいですね、庶民用のサイバネティクス。
プチ整形みたいなノリでプチ義体化とかできると最高です。
待ち遠しいですね。