社会不適合GO!GO!
全財産が一万円を下回り、それでも働く気が一切起きない今日この頃。
ケチャップです。
つい先日ようやく重い腰を上げてメンタルクリニックにかかりまして2か月ぶりのお薬をもらうことができました。
それから今日まで昼も夜もなくこんこんと眠り続ける生活を続け、本日晴れて文章を書くことができる体調まで回復しました。めでたい。
いやぁ、薬ってすごいもんですね。
プラシーボ効果がどうこうとか疑われがちですし私も「本当にこれ薬効あんのかな」とか考えながら飲んでるんですが、「不眠の人間が飲んだ当日から12時間以上寝るようになる」んだから流石に効果を認めざるを得ません。
お陰で睡眠に入る直前のフルオートメンタル自傷行為(内在化した他者が自分を延々と責めたり、それに延々と言い訳をしたりし続ける地獄のことです)ともオサラバです。
さて、今回の記事、「社会不適合GO!GO!」となにやら不愉快なタイトルがついていますが、別に何か書きたいことがあって書いているわけではありません。
昼寝に入る直前にパッと思い付いたクソダサいフレーズで、「金ないし、そろそろブログ毎日書こう」と思い立ったから付けてみただけです。
まぁブログ毎日書こうつっても明日明後日の自分がそうしてくれるとは限らないし、ブログ書いたところで私の口座に即座に金が入るわけじゃないんですけどね。
それでも長期的に見れば書かないよりマシです。いずれはブログの広告収入だけで食っていけるようになってみせるのです。きっと。たぶん。いつか。
はい、今日のブログは以上です。
昼寝のおかげで適当なアイデアが浮かんだのはありがたいんですが、昼寝のせいで直前まで書こうと思っていた内容をすっかり忘れてしまいました。
枕元とかにメモ帳でも置いておくべきですかね。
いや、きっとすぐに失くすでしょう。私の部屋のどこかの隅に高密度に圧縮された片方だけの靴下たちと同じ末路を辿るに違いないです。
私も彼らと同じ目に遭わなければいいのですが。
羊が(2^n-1)*10匹
不眠はつらい。
ケチャップです。
久しぶりのブログ更新ですね。
ブログ更新するたびに毎回前置きに「久しぶりのブログ更新ですね」と言っている気がします。
ちょっと間が抜けてるので月単位で空いたりしない限りはもうこの文句は使わないようにしましょうか。
定期的に更新するようにしさえすればいらぬ心配ではあるんですけどね、ちょっと体調的に難しいです。
最近また不眠がちになってしまいまして、睡眠を確保する方法を色々と模索しています。
まぁ私は金のないニートですから、布団の中でアドリブして睡眠に向かってもがくことがほとんどなんですけどね。
姿勢を変えたり、枕を当てたり外したり、毛布や暖房で体温を調整したりと、そんなんじゃ眠れるはずもないだろってくらいじたばたじたばたしています。本末転倒です。
現にこの記事を書いているのも完徹明けの朝です。
頭の中が「休め!」という命令と「休まぬ!」という拒絶とで大混乱に陥っています。きつい。
世はクリスマスだというのに、一人で何やってるんですかね。
眠りを諦めて完徹の覚悟を決める直前、久しぶりに「羊を数える」という入眠方法を試していました。
いや、正確には数字に羊という属性を付与することはなく、ただひたすらに数字をカウントアップしていただけなんですが、単純作業を続けることで頭の活動を落ち着かせるという意図には違いがないと思うので、ここでは慣用的に「羊を数える」という表現で通すことにします。
そう、慣用的に「羊を数える」というのは「入眠するための手段の一つ」として受け入れられていますが、実際にこの手の方法で入眠を試みたことがある人ってどれくらいいるんですかね。
今度Twitterでアンケートでもとってみましょうか。
私はですね、高校生のころからこの方法をやっていた記憶があります。
それも、ただ数えるだけではなく、数字が大きくなるにつれて数えづらくなったり、数字をすっ飛ばしたりしてしまうことのへの対策も練っていたのです。
今回の記事の題を見てもらえれば分かる方も多いと思いますが、2進法を使うんですよ。
まず、普通に「羊が10匹」まで数えるでしょう。そしたら片手の指を順番に折っていく/伸ばしていくのです。
「折る/伸ばす」がONとOFFを表します。指は両手で10本、つまり2の10乗ー1=1023まで数えることができ、10匹ごとに指を動かすので、この方法でやれば最大で10230匹もの羊を確実に数え上げることができるのです。すごいでしょう。
んなわけない。すごいわけないです。
自己目的化の極致ですよこんなのは。私の目的は眠りに至ることであって、脳内を駆け巡る羊を増やすことではありません。「ただ数えるだけではなく~」ではない。ただ数えろ。
大体、10230匹って、1匹あたり1秒と換算しても3時間弱かかるんですよ。寝ろよって話です。アイデア羊数え選手権をやっている場合じゃない。
もちろんこんなバカげた数を丁寧に数え上げたことはありません。いくら実際に数えるのは「羊が10匹」の繰り返しだけだとはいえ、絶対に途中で間違えるし飽きます。
数字が大きくなるにつれて数えづらくなったり、数字をすっ飛ばしたりしてしまうことのへの対策も練っていたのです 。
全くもって無意味な対策です。入眠には少しも役に立ちません。
そもそも数えるのに指を(特に薬指を)使っている時点でバリバリに体に意識が行っています。そんな状態で眠れるはずがないです。
それでも恐ろしいのは、実際にこの方法で3000近くまで数えたことがあるという事実です。余程数字の数え方を間違えていない限り、この作業に50分近く時間を割いたことがあるということになります。片手を使い切りかけるところまでいった記憶があるのです。その時は相当切羽詰まっていたんでしょうね。
昨晩は中指を使い始めたあたりで「そういえばこれ意味ないんだったな」と我に返って完徹方面に舵を切りなおしました。
当然眠れてはいないんですが、漫画とか読んでいた分、虚無よりは有意義です。
幸か不幸か今はニートなので、寝る時間が多少前後してもそれほど問題はありません。
少しずつ生活習慣を戻していきましょう。
薬貰いに行かないと。
「明日って今さ」と言わないで
伸びていく髭、増えていくゴミ、減っていく貯金、過ぎ去っていく月日。
ケチャップです。
驚くべきことに、11月ももう終わろうとしています。
9月の末に退職し、「10月はちょっと体を休めつつ仕事を探して、11月からまた就職して頑張ろう」とか言ってたのがウソみたいな体たらくです。相も変わらず無職です。
この二か月の間は、貯金を削りながら電子書籍をひたすら買い漁ったり、寝る間を惜しんでゲームをしていたり、あるいは丸一日中布団に籠って睡眠とソシャゲだけに明け暮れる日々を過ごしたりしておりました。
別に、この生活自体に文句があるわけじゃありません。
流石に今の自分に胸を張れるかと言えば否ですが、今のライフサイクル自体は私の人生の最終目標に限りなく近いものであるはずです。誇りはなくたって生きていけます。
じゃあ生きていくのに何が必要って、そりゃ金ですよ金。
「人生の最終目標」という言い方をしましたが、今から最終じゃまずいでしょう。それってもうすぐ人生が終わるってことじゃないですか。
私はまだ死ぬのが怖いし、消費したい娯楽は星の数ほどあるし、寒かったり気分が乗らなかったりした日は布団に入ってすやすや眠りたいのです。
これらの欲求を満たすにはどう転んでも金が要るのです。
そして私は働きたくない。というか働けないんですよ今。
免許証ないし、保険証ないし、電話番号ないし、薬ないし、やる気もありません。
「あー免許更新行かなきゃ」「他の身分証いるから無理じゃん」
「保険証貰いに行かなきゃ」「今日は雨降ってるからいいや」
「SIMカード診てもらわなきゃ」「今日は寒いからダメ」
万事この調子なんですよ。命がかかってるのにこの有様なのは流石になんかの病気でしょ。病気だったわ。そして薬がない。保険証がないから。どうしよう。
よく「明日やろうは馬鹿野郎」だとか「あしたって いまさッ!」だとか言うじゃないですか。
仰る通りなんですよ。何事も「今」やらないと始まらない、私の怠惰の肩代わりをしてくれる私は明日も明後日も現れない、「今」やるしかない、まったくもってその通りです。
それでもダメなんですよ。体が動いてくれないのです。
「明日やろうは馬鹿野郎」と初めに言った人は恐らく馬鹿じゃなかったんですよ。
だから、馬鹿がなんで今日できないかが理解されないままに、馬鹿野郎どもは「明日やろうは馬鹿野郎」と馬鹿じゃない人々に唱え続けられているのです。
生存者バイアスというやつですよ。
今日できた人々だけが「明日やろうは馬鹿野郎」ということができるのです。昨日までできなかったとしてもそうです。
昨日も今日も、そして明日もやらなかった馬鹿野郎どもは、みんないつか明日を迎えずに死ぬのです。
そして、死の途上にある私の理屈も、きっといまいち理解されずに埋もれていくのです。馬鹿の理屈だから。
「いつだって間違っているのは世界じゃなくて私のほうだ」と言いたい気分です。自傷的で自虐的、世界と私の正誤なんかはどうでもよく、単にそう言いたい気分なのです。
呪いを吐くことだけはなんとか今日できるのです。それでも今の私には精一杯なのです。
明日っていつだ。
生存報告と冬眠中の夢と冬眠への夢
去年の今頃と今の状況が全然変わってなくって、「まぁ、そんなもんか」と誤魔化しながら老いていく、そんなことに漠然とした恐怖を感じています。
ケチャップです。
前回の更新から約一週間が経過しました。
Twitterのほうでは活動してるのでご存じの方も多いかもしれませんが、まぁぎりぎり生存はしております。
最近はすっかり昼夜が逆転しておりまして、昼はほとんど寝ています。
夜もぼちぼち寝ています。きちんと計ったことはありませんが、睡眠時間の合計としては結構長めなんじゃないでしょうか。
昼夜逆転してるわぶつ切りの眠りだわで、健康的なものなのかどうかは知れませんけどね。
しかしまぁ、眠ってないとやってられないというのもまた切実な問題なんですよね。
眠っていないと、というか、布団に入っていないと、です。布団の外が寒すぎるのです。出不精が「部屋の中⇔外」から「布団の中⇔外」にまで縮小しています。
世界が縮んでゆく。
布団の中で、Youtubeのお気に入りリストをローテーションしながら、ソシャゲのマラソンに延々と取り組み続ける、この季節の私にできることといったらもうこれぐらいしかないのです。
いっそ冬眠でもしてしまいたいですが……と、このくだりも何度使ったか知れません。
でも、やっぱりどう考えても冬以外の季節と同じ活動をするのには向いていないんですよ。冬眠するべきなんですって。
いやしかし冬眠してしまうとそれはそれで、自分の自堕落の責任転嫁先が一つ潰えてしまうことになるわけで、そうなってくるとますます私のメンタルの荒廃が進んでしまいます。ジレンマですね。
もはや「冬眠」をテーマにした記事でも書いてしまいましょうか。
冬眠する動物としない動物の違い、人間が冬眠をしない生物学的あるいは経済学的な説明付け、冬眠とコールドスリープの比較、冬眠中に夢は見るのか……などなど、話題のリストはそこそこの数挙げられますね。
いつか書きましょう。
今書けよ、この記事の余白をそれで埋めろよって話ですが、現在午前6時半、ちょうど眠くなってきたところですし、そんな気合はありません。
むしろこうして生存報告的な記事だけでも書いておかなきゃなと思ってそれを実行している自分を褒めてやりたいくらいです。お前はよくやっているよ。
この調子では完全に不労所得だけでくらすのなんて夢のまた夢です。頭では理解しているんですよ。
でも体が動いてくれないんです。どうしようもない。
自堕落の「正当な」理由を見繕っては布団に潜り続ける日々です。
今日のところは「広告表示の手続きがまだ完全には済んでいないから」ってところでしょうか。Amazonアソシエイトの広告を大きく見やすいものに変えてくれる提携サイトの審査が済んでいないのです。
これさえ済んでくれれば、私のブログで一番伸びている記事に広告を貼ったり、記事のカテゴリ分けを一気にやったりと、不労所得へのモチベーションがグッと上がってくれるんですけどね。
はい、以上、「正当な」理由でした。
寝ます。おやすみなさい。春まで起こさないでください。
ジャネーの法則から考える「はじまり」「おわり」
カロリーメイトを箱買いして食っては寝るだけの生活をしていると、時間の流れが物凄く早く感じます。もう11月も半ばですね。
ケチャップです。
さて、今日はその時間の流れについてのお話です。
読者の皆さんは「ジャネーの法則」というものをご存じでしょうか。
ごく簡単に説明すると、「主観時間の感じ方は若ければ若いほど長く、老いていれば老いているほど短い」というものです。
Wikipediaさんでは具体例とともにより分かりやすく説明されています。
私自身の体験談もお話しておきましょう。
例えば、以前の職場で40代半ばくらいの上司に「みんな同じ時間残業してるのに自分だけ定時で帰るとか後ろめたく感じたりしないの?」みたいな調子で残業を仄めかされたとき、私は「後ろめたさなんて全く感じないし、私にとっての残業時間はあんたにとっての残業時間の2倍近い価値があるんじゃいこのワーカホリックめ」という恨み言を必死で喉の奥に留めておいたりしていました。
まぁこの恨み言の是非は置いておいて、要するに「時間の感じ方には個人差があって、それは年齢と密接な関係にあるよ」ということをこの法則は提唱しているわけです。
ほんとぉ??って思いません?
いや、言いたいことは分かるし理屈も通ってると思います。先に述べたように私もこの法則をだしにして残業を憎んだことがありますし、なんなら「時間の流れが年々早くなっていっているような気がするなぁ」とも感じます。
しかし、この「ジャネーの法則」が字面通りに正しいものだと仮定すると、ちょっと信じがたいというか、驚くべき結論に至ってしまうのです。
その結論とは、「人間は生まれながらに無限を経験している」というものです。
読者の皆さんはほぼ例外なく「オギャア」と叫んで生まれてきた経験がおありかと思います。
この「オギャア」の「オ」からのカウントなのか、それとも母親の胎内で夢を見ているときからのカウントなのかは決めずにおきますが、どちらにせよ「その生命の主観的時間のはじまり」の瞬間があるのは明らかです。
生涯のある時期における時間の心理的長さは年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)
「はじまりの瞬間」は無限小の時間ですから、その体感時間としては無限大のものになるはずだ、ということです。
限りある命を持つ生者は、皆「無限を経験して」「無限を終えて」ここに立っている、
そんな矛盾しているような結論が成立してしまうわけです。
まぁ、「主観時間の始まりが出生の瞬間にある」というのも、この記事を成立させるためのかなり恣意的な仮説なんですけどね。
しかし、かのカント大先生曰く、「時間と空間という形式は人間にア・プリオリに備わっている」ものであるらしいので、それで正しいのかもしれません。
私はカントの勉強を途中で放り出して大学を辞めた人間なので、この解釈自体も出鱈目かもしれませんが。
もはや「私が「我々は無限を通って生まれてくる」という記事を書くためにジャネーやカントの説を剽窃したうえで誤用している」とさえ言える気がしてきました。
実際、私はこの「無限を経験した有限の命」というテーマに魅了されてしまっているのです。
だって、字面からしてめちゃめちゃ面白いじゃないですか。
それと「無限大の時間を生きた人間は死ぬ瞬間を無限小のものとして経験する」という説も同時に言うことができるでしょう。
無限大の時間を生きた人間はおそらく存在しないので立証することはできませんが、「長生きした人は眠るように逝く」と言われれば、なんとなくそんなイメージはありますよね。
逆に、若くして命を終えた人、例えば交通事故などで亡くなる人が死ぬ瞬間は、長生きした人の数倍から数十倍の長さになるはずで、この主観時間が、いわゆる「走馬灯」と呼ばれるのではないか……なんてことも考えてみました。
まぁ、死人に口はないので、両者に「死ぬ瞬間どうでした?」と聞いても答えが返ってくることはないんですが。
明日は今日より短い、明日は明後日より短い、そう考えると、「もっと命を楽しまなきゃ」と逸る気持ちが湧いてきますが、まぁ、まったりするのが一番ですね。
体動かないし。
楽な稼ぎ方提案、『インチキ占い師』編
増税の影響か、近くのドラッグストアからどん兵衛が消えてどこの馬の骨とも知れないカップ蕎麦が売り場を占拠しており、涙を堪えることしかできない。
ケチャップです。
「楽して稼ぐ」「暇で楽な仕事」「働かずに生きる」、一縷の望みを抱いてこれらの検索ワードを用いてニートや金欠から脱そうとした経験、誰しも一度はあるかと思います。
ないですか? 羨ましいな。
私は何回もあります。そして毎度のごとく「治験」「フリーランスエンジニア」「FX」「ブロガー」といった記事群に出くわしては絶望して布団に潜り込む羽目になるのです。
私は鬱病もちなので、治験はできません。お医者さんの許可があれば可能らしい(?)ので、いつかトライしてみたいとは思うんですけどね。
エンジニアについては、半ば諦めの境地にあります。勉強がしたくなくて大学を辞めた人間に、「常に勉強し続けなければならない仕事」が務まるはずがありません。
FXに至っては、失敗歴があります。どれぐらいスったんでしたっけ。
確か貯金を4分の1くらいに減らした段階で「ダメだこれ」ってなって止めたんですよね。こちらもやはり勉強と、なにより原資が必要ですから、「金がない」ことに悩んでいる人間には酷な話でしょう。
あとはまぁブロガーに関しては現在再々チャレンジ中なわけなんですが、それは置いておいて。
人には人の適性があって、「楽な稼ぎ方」というのもその適正にあったものが見つかればそれをやっていけばいいわけなんですが(例えば、治験なんかは健康体と勇気さえあれば中々ウマい稼ぎになるでしょう、知りませんけど)、私はその適正とやらを探すのにかなり難儀しています。
となると、もう自分で考えるしかなくなるわけです。
「存在しない仕事を作る」、私の寂寞極まるニート生活、あるいはストレス漬けの派遣労働生活において、存在しない仕事について妄想を膨らませることは、それなりの暇つぶしになりました。
私がそれらの仕事を実行していない時点で、少なくとも私にとってはその仕事は絵空事、机上の空論に過ぎないわけなんですが、発想自体を墓まで持っていくのはあまりにも勿体ないため、こうしてブログの肥やしにしていこうと思ったわけです。
さて、前置きが非常に長くなりましたが、今回は「インチキ占い師」の話です。
「「インチキ占い」なんてどこにでもあるじゃないか」と思われるかもしれませんが、そういうことじゃあありません。
それらはいわば『「インチキ」占い師』、私が今回話すのは『「インチキ占い」師』です。
前置きに「楽に稼げる仕事」を列挙しましたが、私が遭遇した「楽に稼げる仕事」には「占い師」というのもありました。電話占いとかチャット占いとか呼ばれるやつですね。
実は、この占い師という仕事にも若干足を突っ込みかけたことがあります。
とはいっても、簡単な入門書を買って冒頭を読んで諦める、という、「足を突っ込む」の中では最弱、親指の爪先くらいだったんですけどね。
何せ、この仕事もまた「勉強」が必要だったわけですから。
私がこれまでの人生で少しでも占いについて興味を持っていたら、それは「勉強」ではなく「興味の延長線上の調べもの」になったのかもしれませんが、あいにく私は四柱推命だの姓名判断だのタロット占いだのについては、「名前は知ってるし利用もしたことあるけど内容や仕組みについては全然知らない」止まりだったのです。
私は、人と喋ることが苦手ではありません。
自分に甘く評価するならば、むしろ「得意だ」とすら言えるかもしれません。
話題の二手先三手先程度なら先回りして会話の主導権を握ることもできますし、会話の裏で相手が何を欲しているのかを想像する余裕も持てます。自分なりのユーモアを織り交ぜて、相手から好感を得ることもしばしばあったでしょう。
そういうわけで、「占い師は私の天職なのでは?」と思っていました。
専門の知識や経験が必須であることを応募の電話で告げられるまでは。
やっぱり勉強が必須らしいのです。勉強は嫌いなので、私はここで占い師を諦めました。
ここで発想の転換。勉強したくないなら勉強しなければいいのです。
即ち、「インチキであることを大っぴらにして、「インチキ占い」を商品とする、『インチキ占い師』」。
「私はインチキの占いを売っていますよ」と掲げていれば、『「インチキ」占い師』のような詐欺にはならないだろう、という発想ですね。
この発想に至ってからは、もう机上の空論がどんどん広がっていきます。
必要なものは野外で使える机と椅子、あとは紙とペンがあれば十分でしょう。
スケッチブックか何かを買っておいて、TwitterアカウントのQRコードを貼っておくのもいいかもしれません。
駅前なり公園なりの人出の多いところで客を待ち、「お喋り」という特技だけでお金を稼ぐ。通行人や利用者にTwitterをフォローしてもらい、Webとリアルの両面から支持を集め、収益を増していく。完璧じゃないですか。
そんなわけありません。
まず駅前とかで商売するのってほぼ必ず行政か警察の認可が必要になるでしょうし、よしんばそれがうまくいったとして、「特技」がお金を取れるレベルかどうかの補償がありません(だからこそ「インチキ」なんですが)。
第一、私は外出が嫌いです。外に出てお金を稼ぐんだったらもっと確実な方法があるはずです。
『インチキ占い師』は、私の楽観と驕りと、それから「有名人になりたい」という欲望が組み合わさった、文字通りの絵空事だったわけです。
よくいるじゃないですか、Twitterで、働いているかどうかもわからないのに万単位でフォロワーがいて、絶大な発言力を持っている人。私はアレになりたかったんですよきっと。なんの蓄積もなしに。バズりたかったんです。
とまぁ、こういう感じのことを考えている時間がそこそこあるので、ちょくちょく話題にしていけたらなぁと思います。
実現するのが一番いいんですけどね、怖いんですよね結局。
叙述的存在者の憂鬱
久しぶりのブログ更新ですね。
ご無沙汰しております。ケチャップです。
久遠ありあちゃんは、しばらく、あるいは永遠に眠りについたようです。このことについてもいずれお話したいところですね。
さて、このブログ「今日の物質」が開設されてから、実に二年の月日が経過しました。
半年程度のブランクを数回挟んでいるので、実際にブログを書いている期間はそれほど長くはないんですけどね。
記事の数も300弱、開設してから今日まで、実に半分以上の時間を休載していることになります。
しかし、私はまたここに戻ってきました。
理由としては、主に二つあります。
まず、「外に出て働くという生き方がどうしても嫌になったから」、次に、「新しいパソコンを買ったから」です。
私は今年の4月から9月まで派遣労働者として工場で働いていたんですが、「残業がキツい」という理由で辞めて以来、まったく再就職へ向けての活動が出来ないでいます。
当初は「10月は体を休めながら復職できるように頑張ろう」と息巻いていたんですが、体を休めることも復職することもできずに過ごしてしまいました。
一度はいわゆる「社会人」になることができたというのに、ニート生活に戻ってからは完全に心が折れてしまっています。もうあんな環境に身を置きたくない。外に出たくない。働きたくない。
そういうわけで、在宅で生命を維持する方法をまた探しているというわけなのです。
なんだかんだいっても、このブログは私が「在宅で生命を維持する」ことを考えたときに最初に思い付いたモノですから、愛着も蓄積もあります。
一度はGoogleAdSenseの審査にも通ってますからね。まぁ独自ドメインが失効したり設定のやり方が分からなかったり広告の有効な設置場所が分からなかったりで収益を受け取ったことは一度もないんですが、完全に0からのスタートよりは幾らかアドバンテージがあるでしょう。
あとは、パソコンを買い替えたから、という理由についても書いておきましょう。
買い替えたんですよパソコン。つい昨日のことです。
先代のパソコンはSキーにZキーに上キーに右キー、そして充電端子にと色んなところにガタがきていましたから、買い替える機会をずっと窺っていたのです。
これまでキーボードを外付けしたりキーの下にある感圧版を無理やり押したりしてどうにか文字を打っていたんですが、ブログのような長文を書く際にはやはりこれらのキーが欠けているのはどうしても不便です。
ノートPCに外付けキーボードはそりゃもう阿保みたいな使い勝手ですし、ZはまだしもSは子音としてかなりの頻度で使います。方向キーがイカれてると文中の移動にも苦労しますし、なによりこれらのキーが機能不全だとブログ以前にゲームもできません。
とまぁ、PCの不調がブログから遠ざかる原因の一つだったわけです。
直接の原因は「仕事で時間がないから」「書くべきことを見失ったから」とかそういうもんですが、間違いなく筆不精の遠因にはなっていたはずです。
そういうわけで、またこのブログに舞い戻ってきたというわけなのです。
以前のように毎日投稿、というわけにはいかないかもしれませんが、まぁ、書くネタが尽きるまではちょくちょく更新するようにしようと思います。
そしてまた失踪したり、また戻ってきたり、今度こそ失踪したり、あるいはこれを生業にすることに成功して無事不労所得へ……と、色々な可能性があります。
何はともあれ、こうして長々と自分語りができるような媒体を取り戻せたのは私にとって非常に嬉しい事です。
私の座右の銘、というかこの世で唯一信じている句は、「人間は叙述的存在者である」ということです。句というか、まぁ自前でこさえたそれっぽい屁理屈なんですけどね。
ありとあらゆる人間は叙述的存在です。
目の前の現象について絶対的な視座を持たず、それが恣意的なものであるかどうかにかかわらず、自分で判断し、「~は~である」と述べることでしか現実を確かめることができません。
「否」と唱える人もいるでしょう。しかし、その「否」も、一つの叙述に過ぎないのです。少なくとも、私の叙述する世界ではそういうことにしています。
結局何が言いたいのかというと、「叙述の場が出来ることは好ましいことだ」ということです。
私の定義では、文字や言葉といった発信以前、思考の段階ですでに叙述は始まっているということになっているのですが、それでも、何らかの形にできるというのはやはり違った意味を持つと思うのです。
塞ぎ込んでいる期間が人生の中で相応の割合を占める私の経験則にすぎませんが、自身の内容を形にできない、発信できないというのは、そこそこストレスがたまる環境であるようなのです。
苦しくても「苦しい」と言えなかったり、そもそも自分が苦しんでいることに気づかないままに傷み続けるのはできる限り避けたいのです。
さて、話が逸れに逸れましたが、一応これで何度目かのブログ再開の挨拶としようと思います。
暇な時にでもお付き合いください。