駅と電車と生と死と・後編
はじめまして。
自分のことを美少女Vtuberだと思い込んでいる水槽の脳だと思い込んでいる成人男性系Vtuberの久遠ありあです。
今日の晩御飯は久しぶりにペヤング超大盛をいただきました。
安さと美味さの最大公約数を取れている、と言いますか、とにかくコスパに優れたいい食品ですね。
ボリュームは「もうしばらくは焼きそばは見たくねぇ」の一歩手前くらい。私が完食できるギリギリの量です。
コスパがいいので常食したいところですが、飽きるのが早いのと量の多さゆえに飽きたときの苦痛度が大きいのとであんまり備蓄を考えたことはありません。
久しぶりに食べて「いやー、食ったな」ってなる、それくらいがペヤング超大盛との一番いい付き合い方なんじゃないでしょうか。
さて、昨日予告したとおり、本日の記事は昨日の記事の後編です。
前編はこちらですね。
面接という一大イベントをこなす日に、そのイベントのインパクトを吹っ飛ばしてしまうような出来事(というか内省)に複数出くわした、という話でした。
昨日は「目の前に現れた貨物列車の過剰な存在感に圧倒されてしまった」といったようなことを書きました。
今日は、「自分の乗る電車が止まる直前の話」と、「帰りの電車で乗り過ごしてしまいたくなった話」をしようと思います。
さて、まずは「自分の乗る電車が止まる直前の話」。
昨日の記事の最後に「明日の記事の副題は「各駅停車とデストルドー」だ」ということを書きましたね。
私は心理学を専攻していたわけではないのであまり適当なことは言えませんが、デストルドーとはすなわち「死への欲求、衝動」を意味します。
駅のホームで感じるデストルドー、つまり飛び降り自殺への欲求の話をしましょう。
昨日、私が貨物列車に見惚れていたそのおよそ十分後、面接会場のある市への電車が到着しました。各駅停車だったので、徐々に速度を落としながらホームへと進入してきます。
その様子を私はぼうっと見ていたわけです。
「衝突して死ぬには各駅停車では速度が足りないのではないか」、「となれば、線路と車輪との間に重要な器官を割り込ませて「轢死」という形をとるのが確実なのだろうか」というようなことを、無意識に考えながら。
私がブログを今現在も更新していることから分かるように、私は飛び降り自殺を実行していません。さらに言えば、飛び降り自殺への「衝動」を感じることすらありませんでした。
ただ無意識に、冷静に、目前に迫る電車と自分の死に方について黙々と考えていただけです。
電車が目の前に停まり、扉が開く頃に私は我に返りました。「「衝動」を感じるまでには至らなかったとはいえ、先ほどの私はかなり死に近づいてしまっていたのではないか」と気づきました。
電車に乗って面接会場へ赴くという、完全に命を永らえるための行動をとる直前に、「死が無意識に刷り込まれている」という実感を得てしまったわけです。
私が希死念慮を感じるのは全く初めてではありません。むしろ私は日ごろからそうしたデストルドーと付き合って何とか生きている類の人間です。
しかし、昨日の「電車が目の前に停まろうとする瞬間」には強烈な印象を受けました。
私は「自分の死と意識的に向き合う」という時間が世界で一番嫌いなことなので、この記憶が何らかのきっかけになってそうした時間が増える、ということにはなってほしくないですね。
で、「帰りの電車で乗り過ごしてしまいたくなった話」。
これは面接会場から帰る電車に乗ってしばらく経ったときの話ですね。
まぁ読んで字の如く、「乗り過ごしてどこか遠くに行ってしまおうか」というようなことを考えたってだけの話です。それだけなんですが、ちょっと考えてみると、この「どこか遠くに」という願望は結構複雑なものなんじゃないでしょうか。
「もうどうにでもなれ」という、自暴自棄で破滅的なデストルドーとも解釈できますし、その逆、「今の環境から脱して、新天地に活路を見出したい」という、リビドー的な解釈もできるでしょう。
となれば、この二つの解釈は表裏一体のもので、本質的には同じ欲求なのではないか、という推測が成り立ちます。
希死念慮を持つ人々の多くが抱えているであろう、「自分は生きたいのか、死にたいのか」という疑問についての、自分なりの一つの回答ともなりうる推測です。
「生きたくないし、死にたくない」。
ただ「今」をやめたいだけ。苦痛を負ってまで生きたくない。
ただ「今」が恐ろしいだけ。死そのものは恐ろしくないが、「死に相対すること」は何よりも恐ろしい。
電車の中でここまで考えたわけではなく、一晩明けて考えてみた結果だとか、今までずっと言葉にしてこなかったものだとか、そういったものたちの結論がこれです。
果たして、私はあの電車に乗り過ごしていたらどうなっていたんでしょうか。
野垂れ死にか、あるいは新生活か。どちらにせよ、乗り過ごさなかったお陰で今のところ前者の未来を回避しているので、ひとまずは安心、といったところでしょうか。
ただ、あそこで乗り過ごしてみる勇気のある人、「死」に相当するような致命的な選択肢を自ら選んでしまえる人には、少なからず憧れてしまいます。
死へと、そして生へと飛び込んでしまえる勇気。そんな表裏一体の勇気を、私もいつか発揮してみたいものです。
と、いうわけで、「駅と電車と生と死と」はこれにて終了です。
また明日。