【夢日記】途方もなく巨大な蜘蛛、あるいは命の鮮明さについて
一人暮らしを始めて今年で六年めになりますが、不快害虫の類とは一度も遭遇したことがありません。
ケチャップです。
今日のブログは夢日記です。昼寝した時に見た夢の内容がかなり衝撃的だったので記録として残しつつ、それにまつわる余談でお茶を濁していこうと思います。
題にもありますが、今日見た夢というのは「途方もなく巨大な蜘蛛の夢」でした。
輪郭、色、大きさともに私の知る「蜘蛛」という生き物とはかけ離れたものであったように思いますが、夢の中の私はソイツを見て「蜘蛛だ」と直感したようなので、以降これを蜘蛛と呼びます。
暗めの紫ともピンクともつかない体色で、巨大な胴が印象的でした。
尖塔のような、上に向かって窄まっていく天井の一番高いところに陣取って、微動だにせずに私を見下ろしているように見えました。
途方もなく高い場所にいるはずなのにその存在感をはっきりと感じられるので、「巨大だ」という印象を持ったのでしょう。
私は蜘蛛やゴキブリといった不快害虫全般が苦手で(そういう傾向があるからこそ命名された分類なのでしょうが)、巨大な蜘蛛と相対していることを認識した次の瞬間に感じたのは当然嫌悪感でした。
冒頭に書いたように私はしばらく虫と遭遇したことがないので、次に思い浮かぶのは「大家に連絡して駆除してもらう」ことでした。自分で対処するという発想は全くありません。
「駆除してもらうとしても、業者を呼ぶだろうから代金が発生するだろう」「このゴミ屋敷のような惨状の部屋に人を上げるのは少し嫌だな」だとか、夢の中の出来事だと知っている身からすればやや滑稽な心配事をしているうちに、「そういえば私の部屋の天井がこんなに高いはずがないな」ということに気づき、これが夢であることを自覚しました。
はい、夢の内容はこんなもんです。
字にしてみてようやく分かりましたが、マジでなんのオチもないですね。
上の行間で全部消してしまうか10分くらい悩みました。
「内容は粗くとも数を上げることが大事、質は後から着いてくる」というどこかで聞きかじった励ましを念仏のように唱えつつ、余談に入りましょうか。
そもそも、私はなぜ虫が苦手なんでしょうか。
「生理的に」という説明がそれっぽい気はしますが、その四文字だけでは何も説明していないのと同じです。「なぜ生理的に無理なのか」という疑問が新たに発生するだけです。
「生理的に」説を裏付けるとすれば、「明らかな異種族だから」といった説明をすることができるでしょうか。
人間、哺乳類、脊椎動物、虫という生き物は当然どれにも当てはまりません。
故に「警戒すべき異物」として認識されているのではないか、という考え方はアリかもしれません。
ただ、虫だって昨日今日に降って湧いたわけではなく、人間が歴史を語り始める以前からずっと人間の傍に存在していたはずです。それこそ犬や猫と同じように。
犬や猫を生理的、本能的に回避する人もいないではないでしょうが、虫に対するそれと並べて語るのは少し苦しい気がします。
私は学者ではないので、「気がする」だけですが。
「警戒すべき」という点に着目するのなら、虫が疫病を媒介する「脅威」だから、という考え方もあるでしょう(疫病を媒介しない虫であろうとも、脅威となる虫との類似によって警戒の対象足りえるでしょう)。
むしろこっちのほうが理論としての強度は上かもしれません。
虫に限らず、鼠、蛇、猛獣、災害、あるいは「不審な人間」などなど、「脅威であるから恐怖する、忌避する」という行動原理はかなり広範に適用できる気がしませんか。
まぁ、こちらも「恐怖するがゆえに恐怖する」というトートロジーに転じかねないのは少し危うい点かもしれませんけどね。
最後に、私が虫が苦手な「個人的な」理由を挙げて、今日の記事を終えましょう。
というか、実を言うと私は別に虫が特別苦手なわけではないのです。
小さい生き物は全般的に「苦手になりやすい」です。チワワやハムスターといった可愛らしい愛玩動物も、実は私は苦手なのです。
なぜかというと、それらは「命であることが鮮明だから」です。
生きている一個の生命であるということが、私に若干の嫌悪感を与えるらしいのです。
「苦手になりやすい」というのは、その生き物が小さければ小さいほどその鮮明さを、脆さを如実に感じてしまうからで、「これは生きている」という実感を一度抱いてしまうと、大きな生き物や人間にも忌避感を感じてしまうことがあります。
小学生くらいのころ、私が虫嫌いだと知っているクラスメイトが「死んでるから大丈夫だって」と言ってバッタか何かの死体を見せてきたことを今でも覚えています。
そして今でも、何が「大丈夫」なのか全く分かっていません。
死体は命の脆さの極点です。終わってしまっていることが、かえってそれが「命だったこと」の鮮明さを際立たせるのです。
別に、倫理的な話をしてるんじゃありません。死の冒涜だとか、そういう風に憤るつもりは全くありません。
ただ、彼にとってあの「命」は恐怖の対象ではなかったのか、他の人々にとってはどうなのか、ずっと疑問に思っているのです。