泣きながら 応募ボタンを 連打する
明日の着信、何件来るの。
短歌。
ケチャップです。
「まぁ所持金少ないけど一か月くらい平気やろ~」とかヘラヘラしてたんですが、さっき財布の中身を確認したらちょっと青ざめてしまうくらいに残金が少なかったので、流石に焦りが出てきました。どうしてこうなるまで放っておいたんだ。
そういうわけなので、求人サイトで近所のありとあらゆるバイトに応募してきました。
もう、ほんと手当たり次第です。
あの手の求人サイトって「この求人に応募している人はこちらの求人にも応募しています」とか「仕事が決まる人は平均~件応募しています」とか言って、やたら何件も応募することを勧めてくるじゃないですか。
あれって実際どうなんですかね、応募する側からしてもされる側からしても。
私は今日初めてその誘いに乗って十数件応募してみたんですが、とても面接のスケジュール管理とかかかってくるであろう先方からの電話に対応できる気がしません。
仕事探してる人ってみんなこんなハードなことしてるんですか?
やっぱ私は働くの向いてないです。
応募される側からしてもいい迷惑なのでは?とも思いますね。
だって何件も応募してる人間ってどうしたって一件当たりの情報収集であるとか社名や業務内容の把握だとかが疎かになりがちでしょう。
「求人サイトでまとめて募集したので実は御社についてよく分かっていません。業務内容や雇用形態について説明していただけませんか?」とか言い始める輩がいるかもしれない、そう考えると非常に面倒そうで同情してしまいます。
まぁ明日の私は恐らく上記のセリフを連発することになるんですけどね。
めちゃめちゃ人に迷惑をかけます。もう応募しちゃったので開き直るしかありません。
しかし、流石にあれだけ応募しておけば一件くらいは私でもやれそうな仕事はあるでしょう。
去年の今頃に世話になった派遣会社が求人を出しているのも見かけたので、電話帳に残っている人事の方に連絡を試みるのも良いかもしれません。
ああ、働きたくない。
心底働きたくないですが、我慢するしか生きる道はありません。
我慢もしたくねぇなぁ。でも死にたくない。はやくちょうどいい居場所を見つけなければ。
言葉の源
月曜日はニートの言い訳がなくなるので嫌いです。
ケチャップです。
今日もほぼ丸一日寝て過ごしていました。
先週までは不眠で悩んでいたのに、今では眠りすぎに悩んでいます。
悩んでいる、というのが正確な表現なのかはわかりませんけどね。
眠っている間は悪夢でも見ない限りは快適の極みですし、布団の中でくるまっている時間も大好きです。
ただまぁ、当然のことなんですが、人間眠ってるだけじゃダメなんですよね、悲しいことに。
眠っていてもお腹は空きます。お腹が空くとご飯を食べなくてはなりません。ご飯を食べるのにはお金がかかります。
それに、流石に四六時中寝ているというわけにもいきませんから、起きている間の自我を慰めてやる必要があり、これにもお金が必要になります。
そして一番大事な寝床を確保するのにもお金が……と、とにかく万事においてお金が必要になり、眠っている間はそのお金を得ることができないのです。心から悲しい。
「言葉がなくなっていく」というのも、眠ってばかりいる生活における重大な弱点の一つです。
外部から刺激を受けることが少なくなるので、脳から言葉を捻りだすことが難しくなっていくのです。
まぁ、有体に言えば「ネタが尽きる」ということですね。
別に今のご時世外出しなくたってエンターテイメントはいくらでも消費できて、話題自体はいくらでも湧いてくるんですが、実はそれだけじゃ厳しい部分もあるんですよ。
引きこもりの私がこれを認めるのは若干癪に障るんですが、やっぱり「人と会って話す」というのは大事なことらしいのです。
一人で閉じこもっているのとでは、インスピレーションの量が段違いなのです。ニートでブログ始めて2年経つ私が言うんだからある程度保証できます。
夢日記のように「自分の内側」から湧いてくる言葉もあるにはありますが、「夢」という現象自体、他者との関わりなり外的な現象を反映したものでしょうから、やはり他者との関係を完全に断つということは不可能です。
寝てばかりの生活だと、どうしたって人と会うことが少なくなりがちですから、そのあたりに不安を感じることはままあります(金がないこととかにももっと危機感を感じるべきですが)。
まぁでも、「もう眠るのはいいや」「寝てる場合じゃないな」と思い始めるまでは、冬眠しているとでも思って眠りを享受しましょう。
一年ほど前、今と同じような状態になって精神科医の先生に相談した時も、「眠りたいのなら眠っといたほうがいい」と言っていましたし。今は眠る時期なのです。
そうであれ。
余談ですが、今回↑に張り付けた『日本語のレトリック』という本、高校生の頃の私が図書館で見つけて感銘を受け、大学生になってから自分で買い直した、かなりの名著です。
我々が普段使っている「言葉」「レトリック(比喩)」というものに関して、非常に分かりやすく、そして愉快に解説してくれています。
広告がどうとか以前に、オススメの本です。ぜひ。
【夢日記】途方もなく巨大な蜘蛛、あるいは命の鮮明さについて
一人暮らしを始めて今年で六年めになりますが、不快害虫の類とは一度も遭遇したことがありません。
ケチャップです。
今日のブログは夢日記です。昼寝した時に見た夢の内容がかなり衝撃的だったので記録として残しつつ、それにまつわる余談でお茶を濁していこうと思います。
題にもありますが、今日見た夢というのは「途方もなく巨大な蜘蛛の夢」でした。
輪郭、色、大きさともに私の知る「蜘蛛」という生き物とはかけ離れたものであったように思いますが、夢の中の私はソイツを見て「蜘蛛だ」と直感したようなので、以降これを蜘蛛と呼びます。
暗めの紫ともピンクともつかない体色で、巨大な胴が印象的でした。
尖塔のような、上に向かって窄まっていく天井の一番高いところに陣取って、微動だにせずに私を見下ろしているように見えました。
途方もなく高い場所にいるはずなのにその存在感をはっきりと感じられるので、「巨大だ」という印象を持ったのでしょう。
私は蜘蛛やゴキブリといった不快害虫全般が苦手で(そういう傾向があるからこそ命名された分類なのでしょうが)、巨大な蜘蛛と相対していることを認識した次の瞬間に感じたのは当然嫌悪感でした。
冒頭に書いたように私はしばらく虫と遭遇したことがないので、次に思い浮かぶのは「大家に連絡して駆除してもらう」ことでした。自分で対処するという発想は全くありません。
「駆除してもらうとしても、業者を呼ぶだろうから代金が発生するだろう」「このゴミ屋敷のような惨状の部屋に人を上げるのは少し嫌だな」だとか、夢の中の出来事だと知っている身からすればやや滑稽な心配事をしているうちに、「そういえば私の部屋の天井がこんなに高いはずがないな」ということに気づき、これが夢であることを自覚しました。
はい、夢の内容はこんなもんです。
字にしてみてようやく分かりましたが、マジでなんのオチもないですね。
上の行間で全部消してしまうか10分くらい悩みました。
「内容は粗くとも数を上げることが大事、質は後から着いてくる」というどこかで聞きかじった励ましを念仏のように唱えつつ、余談に入りましょうか。
そもそも、私はなぜ虫が苦手なんでしょうか。
「生理的に」という説明がそれっぽい気はしますが、その四文字だけでは何も説明していないのと同じです。「なぜ生理的に無理なのか」という疑問が新たに発生するだけです。
「生理的に」説を裏付けるとすれば、「明らかな異種族だから」といった説明をすることができるでしょうか。
人間、哺乳類、脊椎動物、虫という生き物は当然どれにも当てはまりません。
故に「警戒すべき異物」として認識されているのではないか、という考え方はアリかもしれません。
ただ、虫だって昨日今日に降って湧いたわけではなく、人間が歴史を語り始める以前からずっと人間の傍に存在していたはずです。それこそ犬や猫と同じように。
犬や猫を生理的、本能的に回避する人もいないではないでしょうが、虫に対するそれと並べて語るのは少し苦しい気がします。
私は学者ではないので、「気がする」だけですが。
「警戒すべき」という点に着目するのなら、虫が疫病を媒介する「脅威」だから、という考え方もあるでしょう(疫病を媒介しない虫であろうとも、脅威となる虫との類似によって警戒の対象足りえるでしょう)。
むしろこっちのほうが理論としての強度は上かもしれません。
虫に限らず、鼠、蛇、猛獣、災害、あるいは「不審な人間」などなど、「脅威であるから恐怖する、忌避する」という行動原理はかなり広範に適用できる気がしませんか。
まぁ、こちらも「恐怖するがゆえに恐怖する」というトートロジーに転じかねないのは少し危うい点かもしれませんけどね。
最後に、私が虫が苦手な「個人的な」理由を挙げて、今日の記事を終えましょう。
というか、実を言うと私は別に虫が特別苦手なわけではないのです。
小さい生き物は全般的に「苦手になりやすい」です。チワワやハムスターといった可愛らしい愛玩動物も、実は私は苦手なのです。
なぜかというと、それらは「命であることが鮮明だから」です。
生きている一個の生命であるということが、私に若干の嫌悪感を与えるらしいのです。
「苦手になりやすい」というのは、その生き物が小さければ小さいほどその鮮明さを、脆さを如実に感じてしまうからで、「これは生きている」という実感を一度抱いてしまうと、大きな生き物や人間にも忌避感を感じてしまうことがあります。
小学生くらいのころ、私が虫嫌いだと知っているクラスメイトが「死んでるから大丈夫だって」と言ってバッタか何かの死体を見せてきたことを今でも覚えています。
そして今でも、何が「大丈夫」なのか全く分かっていません。
死体は命の脆さの極点です。終わってしまっていることが、かえってそれが「命だったこと」の鮮明さを際立たせるのです。
別に、倫理的な話をしてるんじゃありません。死の冒涜だとか、そういう風に憤るつもりは全くありません。
ただ、彼にとってあの「命」は恐怖の対象ではなかったのか、他の人々にとってはどうなのか、ずっと疑問に思っているのです。
アークナイツ完全に理解した
最近Yostarがすごい頑張ってる気がしますね。
ケチャップです。
今日の記事は、昨日1月17日にYostarから日本版がリリースされたスマホゲーム、『アークナイツ』の感想のようなものです。
Yostarといえば艦船擬人化シューティングゲーム『アズールレーン』などが有名な大手スマホゲームメーカーですね。
本作『アークナイツ』はいわゆるタワーディフェンスゲーム。
マップの要所要所に様々な役割を持つ味方ユニットを適切に配置して、敵拠点から一定の進路で攻めてくる敵ユニットから味方拠点を守る、戦略が大切なゲームになっています。
日本で既に有名になっているものだと『千年戦争アイギス』や『にゃんこ大戦争』なんかがこのジャンルに当たりますね。
で、Yostarやタワーディフェンスの話はこれくらいにしておいて、肝心の本作の感想に移りましょうか。
「覚えておいたほうがいいこと」、「良いと思った点」「気になる点」の3つの項で進めていこうと思います。
よろしければ最後までお付き合いください。
覚えておいたほうがいいこと
さて、覚えておいたほうがいいことというのはオート作戦に関係しています。
本作では一度クリアしたステージを自動でクリアしてくれる機能があるんですが、デフォルトのままその機能を利用すると自分でクリアするより時間がかかっちゃうなんてことがままあります。
物理耐久が高いエネミーを延々と物理攻撃する光景、ほかのプレイヤーの皆さんも一度は見たことがあるんじゃないでしょうか。
まぁしばらく放っておくと術ユニットを再配置してくれたりするんですが、それまでにかかる時間はお世辞にも短いとは言えません。
そこで、こちらのスクショをご覧ください。
コレです、手動操作。これを押すとオート作戦が途中から手動に、つまり通常の作戦と同様にプレイできるようになります。
だからどうした、面倒になるだけじゃないか、となるかもしれませんが、次に見てほしいのがコレ。
手動操作に切り替えると、リザルト画面で子のスクショのように「自動指揮を更新しますか?」と聞かれます。
これにYesを出すと、次回のオート戦闘からは「手動操作を再現して」オート戦闘を行ってくれるわけです。
例えば、先ほど例示した物理耐久が高いエネミーが登場したタイミングで手動に切り替えて、出撃上限に引っかかっているようなら不要なユニットを引っ込めて、代わりに進路に術アタッカーを置いてクリアしてやると、次の戦闘からはいくらかスムーズにクリアしてくれるようになるというわけです。
この「オート戦闘の最適化」というのはなかなか面白い試みで、恐らくこのゲームの売りの一つになっているんでしょうね。
まぁ、ネタバラししちゃうと、ここまで書いたことはゲーム内のパネルミッションを進めていくと大体の人が気づくようになってるんですけどね。
自分で気づいて嬉しくなっちゃったんです、はい。
ともあれ、このオート周回を使うことでスタミナ(理性)を消費していくのが日々のルーチンになるのでしょう。
良いと思った点
ここから下は個人的な感想です。
「このゲームはここがいいね!」「ここはもうちょっと工夫の余地がありそうだね!」てな具合に筆者がダラダラと書いていきます。
では、良かった点その1から。
UIが綺麗
UI(の外見)がめちゃめちゃに綺麗です!
「家庭用ゲームみたい!」とかそんなんではなく、「スマホゲーム」として洗練されたデザインをしています。本作はスマホゲームなので、これは当然評価したい点です。
ただ、プレイし始めてまだ間もない時期なので、外見の綺麗さに惑わされて、後になって「ここ不便だな……」となる点が浮き彫りになる可能性はあるかもしれません。
しかし、それは「惑わされる」くらいには綺麗なUIをしているということでもあるわけですよ。
スマホゲームのUIってかなり長時間触ることになる部分ですから、そこを気合入れて作っているというのはすごく良いと思いますね。
字が多い
チュートリアルにシナリオに各キャラクターのプロフィール欄にと、とにかく文字の量が多いです。
これは「スマホゲームなんて女の子が可愛けりゃええんじゃい、字なんて読んでられるか!」というプレイヤーにとっては鬱陶しく感じられる点かもしれませんが、ゲーム内テキストや作中作やTipsを読むのが大好きな私からすればかなり嬉しいところです。
まぁ序盤も序盤から専門用語が乱れ飛ぶメインシナリオには流石に少しくたびれますが、少し読んでいくとなんとなく分かるようになってきます。
ロード画面などで用語の説明をしていることもちょくちょくあるんですがすぐに消えてしまうので、ゲーム内に用語集みたいなのを作ってまとめて格納しておいてもらえると一気に作品として引き締まるんじゃないでしょうか(もしかしたら私が見つけてないだけで既にあるのかもしれない)。
拠点管理が楽しい
ゲームを進めていくと拠点機能が解放され、交易や生産などを行う施設が順次利用できるようになっていきます。
こういうちまちまとした資源管理は個人的に大好きです。
他のゲームの話になっちゃいますが、在りし日の『フリーダムウォーズ』を思い出しますね。内政部分が楽しいゲームなんですよね要するに。
資源をカチャポコやりくりしてアイテムを作り、作ったアイテムでユニットを強化して戦闘へ、と、このサイクル全てに何かしらの楽しさがあるのが理想ですからね。こういう裏方作業に楽しさがあるのは良い事です。
気になる点
SDキャラが勿体ない!
先述の戦闘、拠点機能、ともにSDキャラクターが画面内に表示されるんですが、これらの動きが少し単調に感じます。
他の中国産ゲーム(『アズールレーン』や『少女前線(ドールズフロントライン)』)はSDキャラクターをぐりんぐりん動かしてキャラクターの可愛らしさを前面に押し出していますが、本作は現状そこまでの工夫は見られません。
せっかく可愛らしく作りこんであるのだから、先の二作と同じようにとはいかないまでも、滑らかに動くキャラクターの姿を拝んでおきたいものです。
戦闘が長い!
これは、先述のオート戦闘に関してですね。
そもそもの話として、タワーディフェンスというジャンルは周回プレイに向いていません。
なぜなら、適切なゲームバランスのために敵の「湧き」に時間をかける必要があるからです。あんまりハイスピードに敵をポンポン出しちゃうとあっという間にユニットが全滅しちゃいますからね。
タワーディフェンスという「遅い」ゲームで、プレイヤーに与えるストレスを最小限に周回させるというのはめちゃくちゃに難しい課題のはずです。
ですので、正直あんまり大きな声で文句は言えません。
先ほど「オート戦闘の最適化をコンテンツの一部にしようとしている」というようなことをいいました。この類推が正しいなら、戦闘のスキップといった、「味」を損なうような機能は実装されないでしょう。
現状2倍速が限度ですが、もうちょっと早い進行速度の実装か、あるいはこの問題に関する抜本的な解決が期待されますね。後者はちょっと、想像がつかないですが。頑張ってほしいです。
SEが寂しい
効果音があまり賑やかではありません。
私はこのブログで自身のゲーム哲学(笑)のようなものを何度か書いてきましたが、その一部に「ボタンを押すと数字が増える、数字が増えると音や光が出て嬉しい」というのがゲームの必要十分条件である、という持論があります。
数字を増やしたり音や光による「報酬」を適度にあるいは過剰に与えることでプレイヤーを楽しませるのがゲームという芸術形態です。
そうであるならば、その音や光という部分には当然人を惹きつける工夫や魅力があるはずなのです。
現状の『アークナイツ』のSE、というかエフェクト全般には、「これが聞きたくて(見たくて)ゲームやってる」と言えるような魅力をあまり感じません。
淡々と進行するゲームだからそれでもいい気はするのですが、どうしても寂しさを感じてしまう、というのが、一個人の感想として正直なところです。
はい、そういうわけで、本日は『アークナイツ』の記事でした。
まぁ私もまだまだ始めたばかり、ゲーム自体も日本では公開されたばかりの作品ですから、これからどう変化していくのかを気長に見守っていきたいところです。
効率のいいオート配置を考えながら、イベントなりアップデートなりを待つことにしましょう。
それでは。
社会不適合GO!GO!
全財産が一万円を下回り、それでも働く気が一切起きない今日この頃。
ケチャップです。
つい先日ようやく重い腰を上げてメンタルクリニックにかかりまして2か月ぶりのお薬をもらうことができました。
それから今日まで昼も夜もなくこんこんと眠り続ける生活を続け、本日晴れて文章を書くことができる体調まで回復しました。めでたい。
いやぁ、薬ってすごいもんですね。
プラシーボ効果がどうこうとか疑われがちですし私も「本当にこれ薬効あんのかな」とか考えながら飲んでるんですが、「不眠の人間が飲んだ当日から12時間以上寝るようになる」んだから流石に効果を認めざるを得ません。
お陰で睡眠に入る直前のフルオートメンタル自傷行為(内在化した他者が自分を延々と責めたり、それに延々と言い訳をしたりし続ける地獄のことです)ともオサラバです。
さて、今回の記事、「社会不適合GO!GO!」となにやら不愉快なタイトルがついていますが、別に何か書きたいことがあって書いているわけではありません。
昼寝に入る直前にパッと思い付いたクソダサいフレーズで、「金ないし、そろそろブログ毎日書こう」と思い立ったから付けてみただけです。
まぁブログ毎日書こうつっても明日明後日の自分がそうしてくれるとは限らないし、ブログ書いたところで私の口座に即座に金が入るわけじゃないんですけどね。
それでも長期的に見れば書かないよりマシです。いずれはブログの広告収入だけで食っていけるようになってみせるのです。きっと。たぶん。いつか。
はい、今日のブログは以上です。
昼寝のおかげで適当なアイデアが浮かんだのはありがたいんですが、昼寝のせいで直前まで書こうと思っていた内容をすっかり忘れてしまいました。
枕元とかにメモ帳でも置いておくべきですかね。
いや、きっとすぐに失くすでしょう。私の部屋のどこかの隅に高密度に圧縮された片方だけの靴下たちと同じ末路を辿るに違いないです。
私も彼らと同じ目に遭わなければいいのですが。
羊が(2^n-1)*10匹
不眠はつらい。
ケチャップです。
久しぶりのブログ更新ですね。
ブログ更新するたびに毎回前置きに「久しぶりのブログ更新ですね」と言っている気がします。
ちょっと間が抜けてるので月単位で空いたりしない限りはもうこの文句は使わないようにしましょうか。
定期的に更新するようにしさえすればいらぬ心配ではあるんですけどね、ちょっと体調的に難しいです。
最近また不眠がちになってしまいまして、睡眠を確保する方法を色々と模索しています。
まぁ私は金のないニートですから、布団の中でアドリブして睡眠に向かってもがくことがほとんどなんですけどね。
姿勢を変えたり、枕を当てたり外したり、毛布や暖房で体温を調整したりと、そんなんじゃ眠れるはずもないだろってくらいじたばたじたばたしています。本末転倒です。
現にこの記事を書いているのも完徹明けの朝です。
頭の中が「休め!」という命令と「休まぬ!」という拒絶とで大混乱に陥っています。きつい。
世はクリスマスだというのに、一人で何やってるんですかね。
眠りを諦めて完徹の覚悟を決める直前、久しぶりに「羊を数える」という入眠方法を試していました。
いや、正確には数字に羊という属性を付与することはなく、ただひたすらに数字をカウントアップしていただけなんですが、単純作業を続けることで頭の活動を落ち着かせるという意図には違いがないと思うので、ここでは慣用的に「羊を数える」という表現で通すことにします。
そう、慣用的に「羊を数える」というのは「入眠するための手段の一つ」として受け入れられていますが、実際にこの手の方法で入眠を試みたことがある人ってどれくらいいるんですかね。
今度Twitterでアンケートでもとってみましょうか。
私はですね、高校生のころからこの方法をやっていた記憶があります。
それも、ただ数えるだけではなく、数字が大きくなるにつれて数えづらくなったり、数字をすっ飛ばしたりしてしまうことのへの対策も練っていたのです。
今回の記事の題を見てもらえれば分かる方も多いと思いますが、2進法を使うんですよ。
まず、普通に「羊が10匹」まで数えるでしょう。そしたら片手の指を順番に折っていく/伸ばしていくのです。
「折る/伸ばす」がONとOFFを表します。指は両手で10本、つまり2の10乗ー1=1023まで数えることができ、10匹ごとに指を動かすので、この方法でやれば最大で10230匹もの羊を確実に数え上げることができるのです。すごいでしょう。
んなわけない。すごいわけないです。
自己目的化の極致ですよこんなのは。私の目的は眠りに至ることであって、脳内を駆け巡る羊を増やすことではありません。「ただ数えるだけではなく~」ではない。ただ数えろ。
大体、10230匹って、1匹あたり1秒と換算しても3時間弱かかるんですよ。寝ろよって話です。アイデア羊数え選手権をやっている場合じゃない。
もちろんこんなバカげた数を丁寧に数え上げたことはありません。いくら実際に数えるのは「羊が10匹」の繰り返しだけだとはいえ、絶対に途中で間違えるし飽きます。
数字が大きくなるにつれて数えづらくなったり、数字をすっ飛ばしたりしてしまうことのへの対策も練っていたのです 。
全くもって無意味な対策です。入眠には少しも役に立ちません。
そもそも数えるのに指を(特に薬指を)使っている時点でバリバリに体に意識が行っています。そんな状態で眠れるはずがないです。
それでも恐ろしいのは、実際にこの方法で3000近くまで数えたことがあるという事実です。余程数字の数え方を間違えていない限り、この作業に50分近く時間を割いたことがあるということになります。片手を使い切りかけるところまでいった記憶があるのです。その時は相当切羽詰まっていたんでしょうね。
昨晩は中指を使い始めたあたりで「そういえばこれ意味ないんだったな」と我に返って完徹方面に舵を切りなおしました。
当然眠れてはいないんですが、漫画とか読んでいた分、虚無よりは有意義です。
幸か不幸か今はニートなので、寝る時間が多少前後してもそれほど問題はありません。
少しずつ生活習慣を戻していきましょう。
薬貰いに行かないと。
「明日って今さ」と言わないで
伸びていく髭、増えていくゴミ、減っていく貯金、過ぎ去っていく月日。
ケチャップです。
驚くべきことに、11月ももう終わろうとしています。
9月の末に退職し、「10月はちょっと体を休めつつ仕事を探して、11月からまた就職して頑張ろう」とか言ってたのがウソみたいな体たらくです。相も変わらず無職です。
この二か月の間は、貯金を削りながら電子書籍をひたすら買い漁ったり、寝る間を惜しんでゲームをしていたり、あるいは丸一日中布団に籠って睡眠とソシャゲだけに明け暮れる日々を過ごしたりしておりました。
別に、この生活自体に文句があるわけじゃありません。
流石に今の自分に胸を張れるかと言えば否ですが、今のライフサイクル自体は私の人生の最終目標に限りなく近いものであるはずです。誇りはなくたって生きていけます。
じゃあ生きていくのに何が必要って、そりゃ金ですよ金。
「人生の最終目標」という言い方をしましたが、今から最終じゃまずいでしょう。それってもうすぐ人生が終わるってことじゃないですか。
私はまだ死ぬのが怖いし、消費したい娯楽は星の数ほどあるし、寒かったり気分が乗らなかったりした日は布団に入ってすやすや眠りたいのです。
これらの欲求を満たすにはどう転んでも金が要るのです。
そして私は働きたくない。というか働けないんですよ今。
免許証ないし、保険証ないし、電話番号ないし、薬ないし、やる気もありません。
「あー免許更新行かなきゃ」「他の身分証いるから無理じゃん」
「保険証貰いに行かなきゃ」「今日は雨降ってるからいいや」
「SIMカード診てもらわなきゃ」「今日は寒いからダメ」
万事この調子なんですよ。命がかかってるのにこの有様なのは流石になんかの病気でしょ。病気だったわ。そして薬がない。保険証がないから。どうしよう。
よく「明日やろうは馬鹿野郎」だとか「あしたって いまさッ!」だとか言うじゃないですか。
仰る通りなんですよ。何事も「今」やらないと始まらない、私の怠惰の肩代わりをしてくれる私は明日も明後日も現れない、「今」やるしかない、まったくもってその通りです。
それでもダメなんですよ。体が動いてくれないのです。
「明日やろうは馬鹿野郎」と初めに言った人は恐らく馬鹿じゃなかったんですよ。
だから、馬鹿がなんで今日できないかが理解されないままに、馬鹿野郎どもは「明日やろうは馬鹿野郎」と馬鹿じゃない人々に唱え続けられているのです。
生存者バイアスというやつですよ。
今日できた人々だけが「明日やろうは馬鹿野郎」ということができるのです。昨日までできなかったとしてもそうです。
昨日も今日も、そして明日もやらなかった馬鹿野郎どもは、みんないつか明日を迎えずに死ぬのです。
そして、死の途上にある私の理屈も、きっといまいち理解されずに埋もれていくのです。馬鹿の理屈だから。
「いつだって間違っているのは世界じゃなくて私のほうだ」と言いたい気分です。自傷的で自虐的、世界と私の正誤なんかはどうでもよく、単にそう言いたい気分なのです。
呪いを吐くことだけはなんとか今日できるのです。それでも今の私には精一杯なのです。
明日っていつだ。