今日も物質

必死で存在しています。

もはや雨とは唄えない

前職でビニール傘壊れまくるのが嫌すぎて高い傘買ったのに、仕事辞めてからは一度も使ってない。

 

ケチャップです。

 

 

 

私は眠る前は大抵タブレットで適当なYoutubeの動画を流しながら眠たくなるまでソシャゲを周回する、という風に過ごしています。

どちらも耳元で音を鳴らしているので、部屋の外の環境音はほとんど聞こえません。余程風が激しかったり雷雨だったりする日は別ですが。

 

しかし、昨日の夜、賑やかな電子音の隙間を縫うようにして、小雨が降るような音が聞こえました。

Alexaに確認してみると、案の定天気は雨。「明日もまた頭痛が続くのか」と思って憂鬱な気分になっていたのですが、ふと『雨に唄えば』という映画のことを思い出しました。

文字通り雨の中で歌い踊っているシーンがあまりにも有名な、ミュージカル映画の古典ですね。

私がこの映画に初めて触れたのは中学校の音楽の授業でした。
生徒全員が受ける授業ではなく、選択授業。ほとんどの男子生徒が体育を選択しているところを、唯一私だけが音楽を選択していました(典型的な田舎の過疎地域だったので、別段それ自体は珍しい事ではありません)。
 
音楽の先生は時折授業の一環としてミュージカル作品を観せてくれました。
サウンド・オブ・ミュージック』に『カルメン』、『蝶々夫人』、それに『雨に唄えば』などがそれです。
中学生の頃の話なので覚えていない部分や理解できなかった部分も多々ありますが、当時の私にとってこの音楽の授業は非常に楽しみなものでした。
 
 
もちろん、作品鑑賞だけが授業の内容だったわけではなく、楽器の演奏や合唱もやっていました。
私のほかには女子生徒が二人。三人で歌うのがとても好きでした。
 
そう、私は歌うのが好きな子供だったのです。まぁ音楽の授業を選択している時点で分かることかもしれませんが、その音楽の授業を受けはじめるずっとまえから、私は「歌う」という行為が好きでした。
 
 
話は変わって、次は高校生のころ。
私は演劇部に所属していました。
これも、私にとって愉快な活動でした。
体を大きく動かして、声も伸びやかに自分を、役を表現する。
私は自分の人生に関して「あの頃に戻りたい」なんてことをあまり考えないタイプですが、強いて挙げるとすれば間違いなくこの時期になるでしょう。
 
高校生にとってはそれなりに大きな舞台で、スポットライトを浴びながら高笑い。
腕も脚も軽やかに動き、役と自信がない交ぜになったになったような状態で、喉を唸らせる、私はあの瞬間確かに恍惚していたはずです。
 
 
 
そんな、歌い踊るのが大好きだった私も今は昔。
今となっては、どちらも苦手になってしまいました。
腹から声をださなくなり、手も足もろくに動かさなくなりました。やらなくなるのはできなくなるのと同義です。
最初に自信が挫け、次に体が固まり、最後に、挫けた自信が徐々に屈折して卑屈になっていきます。
 
昔の私はもっと上手く歌えていたはず、もっと心を表現できていたはず。
今の私は歌えません。踊れません。
上に書いたように過去を美化して、その虚ろな栄光にすがって生きています。
 

祖母を訪ねて三千分の一里

めちゃくちゃに鬱が押し寄せてきたのでブログお休みしようかと思ったんですが、椅子に座ったらなんとかやる気出てきたので書いています。

 

ケチャップです。

 

 

 

そうなんです、昨日の夜からめちゃめちゃに鬱が押し寄せてきていたのです。

布団に入っても一向に眠れず、例によって自動メンタル自傷が発動し、朝5時ごろまでひたすら傷み続けていました。

 

 

目が覚めたのは午後1時、「こういうときは日光を浴びれば多少はマシになるのだ」と一縷の願いを込めてカーテンを開け放ちましたが、生憎の曇天です。

即座に脳裏に「低気圧のせいだ」と責任転嫁先を用意します。ぜんぶ自然が悪い。

 

「昨日のストレスを和らげるためにも低気圧を回避するためにも、今日はもう一日中寝込むしかなかろう」と思って布団にとんぼ返りしますが、これが全く眠れません。

フルオート自傷行為がまだ発動していたのです。こいつが収まってくれないと私は何もできないのに。

 

 

やがて「眠れないなら仕方がない、ブログは休んで、自分の好きなことをやる時間を増やしてストレスを解消しよう」という思考に至ったのですが、今度は寒すぎて布団の外に出ることができません。何重苦なのか分かったもんじゃないですね。

 

しかし、ここで私は天啓を受けることになります。

「寒いのなら重ね着をすればいいじゃない」と。これは画期的、すばらしい発想です。

 

普通の人が毎年冬に当たり前にやっているであろう寒冷対策は、私にとっては神からの啓示にも等しいくらいに貴重な発想なのです。

毎年晩冬になってから「そういえば重ね着ってあったな」となるのです。

手袋を使うとかの発想に至るのも大抵は年が明けてしばらくしてからですし、手袋のような使う季節が限られている小物を私が紛失しないはずがないので、毎年の如く買い直しては、2か月と経たずに使わなくなります。

そしてまた失くすのです。彼らもまた、片方だけの靴下たちが眠る墓場へ行くのでしょう。

 

 

流石に服は失くしませんから(気づいていないだけで着実に数を減らしているのかもしれませんが)、重ね着をすることは容易でした。そもそも寝間着を二枚使えばいいだけの話ですし。

 

重ね着をして暖かくなると、今度は局所的な防寒も試みたくなってきます。

手袋はできません。パソコンをいじるにもゲームをするにも邪魔ですし、第一片方だけしか見つかりませんでした。逝ったんでしょうね。

 

となると、次に気になるのは首です。首元の寒さというのは全身に響きますから、ここは死守したいところです。

一昨年ごろに祖母が送ってくれたマフラーがどこかに眠っているはずなので、そいつを探しました。

 

はい、探しました。ありませんでした。無念です。

「探した」とは言っても「使ったらここに置くだろう」と思しき場所周辺の段ボールをひっくり返したりしただけですが、鬱と低気圧に苛まれている身で部屋全域を捜索するのは不可能です。

部屋の中をうろちょろして諦めただけということです。1.3mくらい。

祖母を訪ねて三千分の一里、再会は叶わず、「動いてたら首元気にならなくなってきたからいいや」で短い旅は終わりました。

 

 

また体力のあるときにでも再捜索を試みることにしましょう。

そのときはもう冬も終わろうとしているかもしれないし、もはや春とか夏とかに発掘される可能性もあります。

それでもいいので、せめて次の冬まで紛失しないでいてほしいですね。

また旅にでなくてもいいように。

やってないことリスト

今世紀最長と呼ばれた昨日を上回る長い昼寝。

 

ケチャップです。

 

 

 

皆さん、スケジュール帳やToDoリストと呼ばれるものを活用したことはあるでしょうか。

 

私はロクにありません。

これまでの人生、記憶する限りで私は二回ほどスケジュール帳を買ったことがありますが、どちらも確か一週間も使っていません。すぐに書かなくなり、失くしました。

 

「いつ、どこで、何をする」という予定を立てることが、立てられることが非常に大きなストレスになるんですよね。

今だって、「バイトの面接いつにしますか?」という電話がかかってくるだけで非常にキツい気分になっています。

 

スマホのメモ帳なんかについているような簡単なToDoリストを使うことは稀にあるのですが、「これは今度でいいや」「めんどくさいからやっぱやめとこ」という具合で、運用に失敗することが多いです。

 

 

そういうわけで、今日は逆に(逆に?)、「やってないことリスト」を作ってみようと思います。

この記事を見返せば、私がどれだけ自堕落な人間なのか手に取るように分かるという優れものです。自分で見るときは絶対に薬飲んでるときの方がいいですね。

 

なお、「やってない」という都合上、忘れてしまっているものもあります。やったことすらいずれ忘れてしまうんだから、達成したという印象の無い「やってないこと」が忘れ去られるのはどうしようもないことです。

そういうわけなので、「やっていなくてしかも忘れていること」という超大事そうな項目は作ることができません。忘れているので。

あと、やってないこと全てを列挙していくと膨大な時数になる上に私の自尊心に危機が訪れてしまうかもしれないので、3つくらいに留めておきます。

 

では、「やってないことリスト」です。どうぞ。

 

 

掃除

筆頭ですよね。マジでやりません。

お陰で我が家は完全にゴミ屋敷の様相を呈しています。何度もブログに書いてますね。

やってない理由は、めんどくさいから。掃除というのは意外と重労働なのです。自宅以外の掃除の経験からそう知っているので、なかなか体が動きません。

また、これと並行して「古本を処分する」のもやっていません。めんどくさいから。

金欠に喘いでいる今、これをやれば多少なりともお金になるのかもしれませんが、やる気は全然出ていません。

 

免許の更新

自動車免許の更新というのは、「やむを得ない事情がある場合」、更新期限から6か月経つまでは再発行の機会があるらしいのですが、ついぞ更新にいかずに終わりました。

そういうわけで、免許は今は持ってません。親にも友人にも「それはヤバい」と言われましたが、個人的には全く危機感を持っていません。アホウドリ並みに危機感のない男ですよ私は。

実は六か月6か月以上経っていても申請できるケースがあったりするらしいのですが、やはり「やむを得ない事情がある場合」とあるので、そんな事情は全くなく「めんどくさかった」だけの私は対象外です。

そして極めつけに更新する際の手数料を払うと私の現全財産は8割ほど消し飛びます。八方塞がりですね。

それでもヘラヘラしてるところ辺りほんとに生きるの向いてないなって思います。

 

ネット乞食

「欲しいものリストです♡」とか「パトロンの皆さんはこちらに振り込みお願いします♡」とかいう窓口を一切作っていません。

いや、めちゃくちゃやりたいんですけどね。めんどくさいのでやってません。万事この調子です。オチにすらなりませんね。

将来的にはこういうもので食っていきたいんですが、それを実現するには圧倒的にフォロワー(Twitterのフォロワーに限らず、「同意者」くらいの意味です)が足りません。

足りません、と言っても、開設してないから分かりませんけどね。

もしかしたら「お前のためなら月に500円くらいなら投げてやってもいいよ」という人がすでに10人くらいいるかもしれません。そしたら私は月5000円の収入になります。

50円が100人でも、5000円が1人でもいいです。

そういう人を増やしていくことが私の今後の至上命題なのです。

プライド? ありません。

 

 

以上、やってないことリストでした。

前置きに「やってないこと全てを列挙していくと膨大な時数になる」とか書いといてなんですが、全然思いつきませんでしたね。思いつかないので急遽この文言を後付けしました。

やっぱ忘れるんですよね、やってないから。

そしていつか忘却の彼方から致命的な負債が私に追いついて、「ツケを払え」と脅してくるのです。

ニートという今の身分がそれを証明していますね。

そして過ちは繰り返されようとしている。どこまで落ちていくのやらって感じです。

 

他人事みたいに言ってますね。危機感、どうにかして身に付かねぇかなぁ。

泣きながら 応募ボタンを 連打する

明日の着信、何件来るの。

短歌。

 

 

ケチャップです。

 

 

「まぁ所持金少ないけど一か月くらい平気やろ~」とかヘラヘラしてたんですが、さっき財布の中身を確認したらちょっと青ざめてしまうくらいに残金が少なかったので、流石に焦りが出てきました。どうしてこうなるまで放っておいたんだ。

 

そういうわけなので、求人サイトで近所のありとあらゆるバイトに応募してきました。

もう、ほんと手当たり次第です。

 

あの手の求人サイトって「この求人に応募している人はこちらの求人にも応募しています」とか「仕事が決まる人は平均~件応募しています」とか言って、やたら何件も応募することを勧めてくるじゃないですか。

あれって実際どうなんですかね、応募する側からしてもされる側からしても。

 

私は今日初めてその誘いに乗って十数件応募してみたんですが、とても面接のスケジュール管理とかかかってくるであろう先方からの電話に対応できる気がしません。

仕事探してる人ってみんなこんなハードなことしてるんですか?

やっぱ私は働くの向いてないです。

 

 

応募される側からしてもいい迷惑なのでは?とも思いますね。

だって何件も応募してる人間ってどうしたって一件当たりの情報収集であるとか社名や業務内容の把握だとかが疎かになりがちでしょう。

「求人サイトでまとめて募集したので実は御社についてよく分かっていません。業務内容や雇用形態について説明していただけませんか?」とか言い始める輩がいるかもしれない、そう考えると非常に面倒そうで同情してしまいます。

 

まぁ明日の私は恐らく上記のセリフを連発することになるんですけどね。

めちゃめちゃ人に迷惑をかけます。もう応募しちゃったので開き直るしかありません。

 

 

しかし、流石にあれだけ応募しておけば一件くらいは私でもやれそうな仕事はあるでしょう。

去年の今頃に世話になった派遣会社が求人を出しているのも見かけたので、電話帳に残っている人事の方に連絡を試みるのも良いかもしれません。

 

 

ああ、働きたくない。

心底働きたくないですが、我慢するしか生きる道はありません。

我慢もしたくねぇなぁ。でも死にたくない。はやくちょうどいい居場所を見つけなければ。

言葉の源

月曜日はニートの言い訳がなくなるので嫌いです。

 

ケチャップです。

 

 

 

今日もほぼ丸一日寝て過ごしていました。

先週までは不眠で悩んでいたのに、今では眠りすぎに悩んでいます。

 

悩んでいる、というのが正確な表現なのかはわかりませんけどね。

眠っている間は悪夢でも見ない限りは快適の極みですし、布団の中でくるまっている時間も大好きです。

 

ただまぁ、当然のことなんですが、人間眠ってるだけじゃダメなんですよね、悲しいことに。

眠っていてもお腹は空きます。お腹が空くとご飯を食べなくてはなりません。ご飯を食べるのにはお金がかかります。

それに、流石に四六時中寝ているというわけにもいきませんから、起きている間の自我を慰めてやる必要があり、これにもお金が必要になります。

 

そして一番大事な寝床を確保するのにもお金が……と、とにかく万事においてお金が必要になり、眠っている間はそのお金を得ることができないのです。心から悲しい。

 

 

 

「言葉がなくなっていく」というのも、眠ってばかりいる生活における重大な弱点の一つです。

外部から刺激を受けることが少なくなるので、脳から言葉を捻りだすことが難しくなっていくのです。

 

まぁ、有体に言えば「ネタが尽きる」ということですね。

別に今のご時世外出しなくたってエンターテイメントはいくらでも消費できて、話題自体はいくらでも湧いてくるんですが、実はそれだけじゃ厳しい部分もあるんですよ。

 

引きこもりの私がこれを認めるのは若干癪に障るんですが、やっぱり「人と会って話す」というのは大事なことらしいのです。

一人で閉じこもっているのとでは、インスピレーションの量が段違いなのです。ニートでブログ始めて2年経つ私が言うんだからある程度保証できます。

 

夢日記のように「自分の内側」から湧いてくる言葉もあるにはありますが、「夢」という現象自体、他者との関わりなり外的な現象を反映したものでしょうから、やはり他者との関係を完全に断つということは不可能です。

 

 

寝てばかりの生活だと、どうしたって人と会うことが少なくなりがちですから、そのあたりに不安を感じることはままあります(金がないこととかにももっと危機感を感じるべきですが)。

 

まぁでも、「もう眠るのはいいや」「寝てる場合じゃないな」と思い始めるまでは、冬眠しているとでも思って眠りを享受しましょう。

一年ほど前、今と同じような状態になって精神科医の先生に相談した時も、「眠りたいのなら眠っといたほうがいい」と言っていましたし。今は眠る時期なのです。

そうであれ。

 

余談ですが、今回↑に張り付けた『日本語のレトリック』という本、高校生の頃の私が図書館で見つけて感銘を受け、大学生になってから自分で買い直した、かなりの名著です。

我々が普段使っている「言葉」「レトリック(比喩)」というものに関して、非常に分かりやすく、そして愉快に解説してくれています。

広告がどうとか以前に、オススメの本です。ぜひ。

【夢日記】途方もなく巨大な蜘蛛、あるいは命の鮮明さについて

一人暮らしを始めて今年で六年めになりますが、不快害虫の類とは一度も遭遇したことがありません。

 

ケチャップです。

 

 

今日のブログは夢日記です。昼寝した時に見た夢の内容がかなり衝撃的だったので記録として残しつつ、それにまつわる余談でお茶を濁していこうと思います。

 

 

 

題にもありますが、今日見た夢というのは「途方もなく巨大な蜘蛛の夢」でした。

輪郭、色、大きさともに私の知る「蜘蛛」という生き物とはかけ離れたものであったように思いますが、夢の中の私はソイツを見て「蜘蛛だ」と直感したようなので、以降これを蜘蛛と呼びます。

 

暗めの紫ともピンクともつかない体色で、巨大な胴が印象的でした。

尖塔のような、上に向かって窄まっていく天井の一番高いところに陣取って、微動だにせずに私を見下ろしているように見えました。

途方もなく高い場所にいるはずなのにその存在感をはっきりと感じられるので、「巨大だ」という印象を持ったのでしょう。

 

私は蜘蛛やゴキブリといった不快害虫全般が苦手で(そういう傾向があるからこそ命名された分類なのでしょうが)、巨大な蜘蛛と相対していることを認識した次の瞬間に感じたのは当然嫌悪感でした。

冒頭に書いたように私はしばらく虫と遭遇したことがないので、次に思い浮かぶのは「大家に連絡して駆除してもらう」ことでした。自分で対処するという発想は全くありません。

 

 

「駆除してもらうとしても、業者を呼ぶだろうから代金が発生するだろう」「このゴミ屋敷のような惨状の部屋に人を上げるのは少し嫌だな」だとか、夢の中の出来事だと知っている身からすればやや滑稽な心配事をしているうちに、「そういえば私の部屋の天井がこんなに高いはずがないな」ということに気づき、これが夢であることを自覚しました。

 

 

 

はい、夢の内容はこんなもんです。

字にしてみてようやく分かりましたが、マジでなんのオチもないですね。

上の行間で全部消してしまうか10分くらい悩みました。

「内容は粗くとも数を上げることが大事、質は後から着いてくる」というどこかで聞きかじった励ましを念仏のように唱えつつ、余談に入りましょうか。

 

 

 

そもそも、私はなぜ虫が苦手なんでしょうか。

 

「生理的に」という説明がそれっぽい気はしますが、その四文字だけでは何も説明していないのと同じです。「なぜ生理的に無理なのか」という疑問が新たに発生するだけです。

 

「生理的に」説を裏付けるとすれば、「明らかな異種族だから」といった説明をすることができるでしょうか。

人間、哺乳類、脊椎動物、虫という生き物は当然どれにも当てはまりません。

故に「警戒すべき異物」として認識されているのではないか、という考え方はアリかもしれません。

ただ、虫だって昨日今日に降って湧いたわけではなく、人間が歴史を語り始める以前からずっと人間の傍に存在していたはずです。それこそ犬や猫と同じように。

犬や猫を生理的、本能的に回避する人もいないではないでしょうが、虫に対するそれと並べて語るのは少し苦しい気がします。

私は学者ではないので、「気がする」だけですが。

 

「警戒すべき」という点に着目するのなら、虫が疫病を媒介する「脅威」だから、という考え方もあるでしょう(疫病を媒介しない虫であろうとも、脅威となる虫との類似によって警戒の対象足りえるでしょう)。

むしろこっちのほうが理論としての強度は上かもしれません。

虫に限らず、鼠、蛇、猛獣、災害、あるいは「不審な人間」などなど、「脅威であるから恐怖する、忌避する」という行動原理はかなり広範に適用できる気がしませんか。

 

まぁ、こちらも「恐怖するがゆえに恐怖する」というトートロジーに転じかねないのは少し危うい点かもしれませんけどね。

 

 

 

最後に、私が虫が苦手な「個人的な」理由を挙げて、今日の記事を終えましょう。

 

というか、実を言うと私は別に虫が特別苦手なわけではないのです。

小さい生き物は全般的に「苦手になりやすい」です。チワワやハムスターといった可愛らしい愛玩動物も、実は私は苦手なのです。

 

なぜかというと、それらは「命であることが鮮明だから」です。

生きている一個の生命であるということが、私に若干の嫌悪感を与えるらしいのです。

「苦手になりやすい」というのは、その生き物が小さければ小さいほどその鮮明さを、脆さを如実に感じてしまうからで、「これは生きている」という実感を一度抱いてしまうと、大きな生き物や人間にも忌避感を感じてしまうことがあります。

 

 

 

小学生くらいのころ、私が虫嫌いだと知っているクラスメイトが「死んでるから大丈夫だって」と言ってバッタか何かの死体を見せてきたことを今でも覚えています。

そして今でも、何が「大丈夫」なのか全く分かっていません。

死体は命の脆さの極点です。終わってしまっていることが、かえってそれが「命だったこと」の鮮明さを際立たせるのです。

 

別に、倫理的な話をしてるんじゃありません。死の冒涜だとか、そういう風に憤るつもりは全くありません。

ただ、彼にとってあの「命」は恐怖の対象ではなかったのか、他の人々にとってはどうなのか、ずっと疑問に思っているのです。

アークナイツ完全に理解した

最近Yostarがすごい頑張ってる気がしますね。

 

ケチャップです。

 

 

今日の記事は、昨日1月17日にYostarから日本版がリリースされたスマホゲーム、『アークナイツ』の感想のようなものです。

アークナイツ

アークナイツ

  • Yostar, Inc.
  • ゲーム
  • 無料

apps.apple.com

play.google.com

 

Yostarといえば艦船擬人化シューティングゲームアズールレーン』などが有名な大手スマホゲームメーカーですね。

 

本作『アークナイツ』はいわゆるタワーディフェンスゲーム

マップの要所要所に様々な役割を持つ味方ユニットを適切に配置して、敵拠点から一定の進路で攻めてくる敵ユニットから味方拠点を守る、戦略が大切なゲームになっています。

日本で既に有名になっているものだと『千年戦争アイギス』や『にゃんこ大戦争』なんかがこのジャンルに当たりますね。

 

 

で、Yostarやタワーディフェンスの話はこれくらいにしておいて、肝心の本作の感想に移りましょうか。

「覚えておいたほうがいいこと」、「良いと思った点」「気になる点」の3つの項で進めていこうと思います。

よろしければ最後までお付き合いください。

 

 

覚えておいたほうがいいこと

さて、覚えておいたほうがいいことというのはオート作戦に関係しています。

本作では一度クリアしたステージを自動でクリアしてくれる機能があるんですが、デフォルトのままその機能を利用すると自分でクリアするより時間がかかっちゃうなんてことがままあります。

物理耐久が高いエネミーを延々と物理攻撃する光景、ほかのプレイヤーの皆さんも一度は見たことがあるんじゃないでしょうか。

まぁしばらく放っておくと術ユニットを再配置してくれたりするんですが、それまでにかかる時間はお世辞にも短いとは言えません。

 

そこで、こちらのスクショをご覧ください。

 

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コレです、手動操作。これを押すとオート作戦が途中から手動に、つまり通常の作戦と同様にプレイできるようになります。

だからどうした、面倒になるだけじゃないか、となるかもしれませんが、次に見てほしいのがコレ。

 

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手動操作に切り替えると、リザルト画面で子のスクショのように「自動指揮を更新しますか?」と聞かれます。

これにYesを出すと、次回のオート戦闘からは「手動操作を再現して」オート戦闘を行ってくれるわけです。

 

例えば、先ほど例示した物理耐久が高いエネミーが登場したタイミングで手動に切り替えて、出撃上限に引っかかっているようなら不要なユニットを引っ込めて、代わりに進路に術アタッカーを置いてクリアしてやると、次の戦闘からはいくらかスムーズにクリアしてくれるようになるというわけです。

 

この「オート戦闘の最適化」というのはなかなか面白い試みで、恐らくこのゲームの売りの一つになっているんでしょうね。

 

まぁ、ネタバラししちゃうと、ここまで書いたことはゲーム内のパネルミッションを進めていくと大体の人が気づくようになってるんですけどね。

自分で気づいて嬉しくなっちゃったんです、はい。

ともあれ、このオート周回を使うことでスタミナ(理性)を消費していくのが日々のルーチンになるのでしょう。

 

 

良いと思った点

ここから下は個人的な感想です。

「このゲームはここがいいね!」「ここはもうちょっと工夫の余地がありそうだね!」てな具合に筆者がダラダラと書いていきます。

では、良かった点その1から。

 

UIが綺麗

UI(の外見)がめちゃめちゃに綺麗です!

「家庭用ゲームみたい!」とかそんなんではなく、スマホゲーム」として洗練されたデザインをしています。本作はスマホゲームなので、これは当然評価したい点です。

ただ、プレイし始めてまだ間もない時期なので、外見の綺麗さに惑わされて、後になって「ここ不便だな……」となる点が浮き彫りになる可能性はあるかもしれません。

しかし、それは「惑わされる」くらいには綺麗なUIをしているということでもあるわけですよ。

スマホゲームのUIってかなり長時間触ることになる部分ですから、そこを気合入れて作っているというのはすごく良いと思いますね。

 

字が多い

チュートリアルにシナリオに各キャラクターのプロフィール欄にと、とにかく文字の量が多いです。

これは「スマホゲームなんて女の子が可愛けりゃええんじゃい、字なんて読んでられるか!」というプレイヤーにとっては鬱陶しく感じられる点かもしれませんが、ゲーム内テキストや作中作やTipsを読むのが大好きな私からすればかなり嬉しいところです。

まぁ序盤も序盤から専門用語が乱れ飛ぶメインシナリオには流石に少しくたびれますが、少し読んでいくとなんとなく分かるようになってきます。

ロード画面などで用語の説明をしていることもちょくちょくあるんですがすぐに消えてしまうので、ゲーム内に用語集みたいなのを作ってまとめて格納しておいてもらえると一気に作品として引き締まるんじゃないでしょうか(もしかしたら私が見つけてないだけで既にあるのかもしれない)。

 

拠点管理が楽しい

ゲームを進めていくと拠点機能が解放され、交易や生産などを行う施設が順次利用できるようになっていきます。

こういうちまちまとした資源管理は個人的に大好きです。

他のゲームの話になっちゃいますが、在りし日の『フリーダムウォーズ』を思い出しますね。内政部分が楽しいゲームなんですよね要するに。

資源をカチャポコやりくりしてアイテムを作り、作ったアイテムでユニットを強化して戦闘へ、と、このサイクル全てに何かしらの楽しさがあるのが理想ですからね。こういう裏方作業に楽しさがあるのは良い事です。

 

 

気になる点

SDキャラが勿体ない!

先述の戦闘、拠点機能、ともにSDキャラクターが画面内に表示されるんですが、これらの動きが少し単調に感じます。

他の中国産ゲーム(『アズールレーン』や『少女前線(ドールズフロントライン)』)はSDキャラクターをぐりんぐりん動かしてキャラクターの可愛らしさを前面に押し出していますが、本作は現状そこまでの工夫は見られません。

せっかく可愛らしく作りこんであるのだから、先の二作と同じようにとはいかないまでも、滑らかに動くキャラクターの姿を拝んでおきたいものです。

 

戦闘が長い!

これは、先述のオート戦闘に関してですね。

そもそもの話として、タワーディフェンスというジャンルは周回プレイに向いていません

なぜなら、適切なゲームバランスのために敵の「湧き」に時間をかける必要があるからです。あんまりハイスピードに敵をポンポン出しちゃうとあっという間にユニットが全滅しちゃいますからね。

タワーディフェンスという「遅い」ゲームで、プレイヤーに与えるストレスを最小限に周回させるというのはめちゃくちゃに難しい課題のはずです。

ですので、正直あんまり大きな声で文句は言えません。

先ほど「オート戦闘の最適化をコンテンツの一部にしようとしている」というようなことをいいました。この類推が正しいなら、戦闘のスキップといった、「味」を損なうような機能は実装されないでしょう。

現状2倍速が限度ですが、もうちょっと早い進行速度の実装か、あるいはこの問題に関する抜本的な解決が期待されますね。後者はちょっと、想像がつかないですが。頑張ってほしいです。

 

SEが寂しい

効果音があまり賑やかではありません。

私はこのブログで自身のゲーム哲学(笑)のようなものを何度か書いてきましたが、その一部に「ボタンを押すと数字が増える、数字が増えると音や光が出て嬉しい」というのがゲームの必要十分条件である、という持論があります。

数字を増やしたり音や光による「報酬」を適度にあるいは過剰に与えることでプレイヤーを楽しませるのがゲームという芸術形態です。

そうであるならば、その音や光という部分には当然人を惹きつける工夫や魅力があるはずなのです。

現状の『アークナイツ』のSE、というかエフェクト全般には、「これが聞きたくて(見たくて)ゲームやってる」と言えるような魅力をあまり感じません。

淡々と進行するゲームだからそれでもいい気はするのですが、どうしても寂しさを感じてしまう、というのが、一個人の感想として正直なところです。

 

 

 

はい、そういうわけで、本日は『アークナイツ』の記事でした。

まぁ私もまだまだ始めたばかり、ゲーム自体も日本では公開されたばかりの作品ですから、これからどう変化していくのかを気長に見守っていきたいところです。

効率のいいオート配置を考えながら、イベントなりアップデートなりを待つことにしましょう。

 

それでは。