サボりの言い訳を失う
はじめまして。
自分のことを美少女Vtuberだと思い込んでいる水槽の脳だと思い込んでいる成人男性系Vtuberの久遠ありあです。
昨日のブログはなんであんなに長くなったんでしょうね。
まぁ愚痴が溜まってたというか、書きたいこと自体は潜在的に結構あったんでしょうね。毎日書く内容に困らない、書くことが面倒でもない、という状況が理想なんですが、そうもいきませんからね。
さて、その昨日のブログの終わりに、私は「明日は月曜日なのでそろそろ転職に向けて何か動きをしていきたいですね」みたいなことを言って締めたと思うんですが、本日のそれらしい進捗は0です。
昨日と同じような、あるいは一昨日と同じような、睡眠と虚無だけに費やされた一日でした。
この調子で明日明後日も……と続くと少々、いやかなりマズいことになります。
……本当に?
いや、実はですね、あるバイト斡旋サイトの担当の方とそこそこ仲良くさせてもらってまして、「仕事に困ったらいつでもご連絡くださいね」という状況を作れてはいるのですよ。
電話一本で命を繋ぐことができる環境を、一応作れてはいるわけです。
わざわざ少ない資金で上京して危ない橋を渡るより、もう少しそういったバイトをして貯金をしてもいいんじゃないか、という考え方もあります。
家賃に税金に奨学金の返済に趣味にと色々使って黒字になるのであれば、の話ですけど。
実際、どう振る舞っていくのが最善なのか今の私には全然わからないのです。
私が敬愛してやまない哲学者(というと若干語弊がありますが)にサルトルがいますが、彼は「人間は自由の刑に処せられている」という言葉を遺しています。
今の私の状況はまさしく自由の刑といったところでしょう。
敷かれたレールから外れ、従うべき指針もなく、もはやあてもなく彷徨うしかない。
自由とは、そういう不安定な状況を示す語でもあるわけですね。
じゃあそのサルトルの著書である『嘔吐』から得た「人間は叙述的存在者である」とかいう自論に従えばいいじゃないか、となるわけですが、まぁそれができたら今頃無職なんてやってませんわって話です(ブログという媒体で「叙述」自体はやってますけど)。
ハクスリーの『すばらしい新世界』や伊藤計劃の『ハーモニー』に描かれていた理想郷に対する憧れが私をサボらせるのか、サボりを我慢できないような「大人になれない大人」に育ってしまったのか、いや、どうだっていいんですよそんなことは。
現実として私の体が動いてくれなくて、それについての言い訳を自分で用意できなくなっているのが問題なんです。
このままでは私は自分を責め始めてしまいます。それはとてもよくない。
よくないので、体が動いてくれるか、言い訳を思いつくかのどちらかを待っているわけです。
明日、明日が今日と同じような一日にならないよう祈るしかありませんね。